2023年01月10日

完璧な人は殺される

「棚から哲学」 土屋賢二 文春文庫 2002年

完璧な人間 p207〜

 「よく「完璧な人間なんていない」といわれるが、不可解でならない。わたしが目の前にいるのにこう主張する人がいるし、まわりの連中は、自分を完璧な人間だと思い込んでいるとしか思えないような人間ばかりなのだ。

 念のため、「自分自身を完璧だと思うか」と妻に聞いてみると、意外なことに、完璧じゃない、という。数ある欠点のうち、何を最大の欠点と考えているのかを知りたくて、どんな欠点があるのかと聞いてみると、「夫に恵まれていないところ」と答えた。他に欠点はないのか、と聞くと、「容姿も頭も性格も」欠点だらけだという。
 思った通りだ。恐ろしいことに、それらの欠点がなければ完璧だと思い込んでいるのだ。そういう思い違いをすること自体、完璧な人間でない証拠だ。

 このように、完璧でない人間にかぎって自分は完璧だと考える傾向がある。ちなみに、わたし自身は自分が完璧からほど遠い人間だと考えている。女を見る目がない、自分のすぐれたところを宣伝する押しの強さがないなど、欠点だらけだ。
 どんな人間が完璧なのだろうか。当然、勇敢、温厚、謙虚、明朗といった性格は必要だ。気前がよく、社交的で、公正で、思いやりがあり、決して怒ったりしない。見栄をはらず、こせこせしたところがなく、物事にこだわらず、執着心がない。知恵があるのに利口ぶらず、かっこいいのにかっこをつけない。ギャンブル、タバコ、酒、女におぼれない(ここで多くの人は「完璧にはなりたくないかもしれない」と考えるだろう。)万引き、強盗などもしない。建設的なことを決意しても三日坊主に終わることがない。余分の脂肪もなければ、悩みも苦しみもなく、毛髪も豊か、ハンサムで長身、スポーツ万能だろう(このあたりで相当感じが悪くなるが、多くの人は「これくらいなら完璧になってもいい」と思い直すことだろう)。

 高みに立って他人を叱ったり批判したりすることもない。「棚をなおせ」、「ビデオの接続をしろ」と夫に命令したりせず、勉強してでも自力でやるか、最低でも近所の人に頼む。原稿が遅れても執筆者に文句をいわない。教師にことさらお茶をいれまいとしたり、いれても異常に薄いようなこともない。こういった人間が完璧な人間の候補になるだろう。

 だが、このような人間には悪い面もある。物事にこだわらないから、こだわりや執念が必要な受験勉強、英会話習得、ダイエット、切手収集ができない。執着がないから努力や根性に欠け、伊能忠敬のように日本地図を作るとか、ゲーテ全集を読破するとか、逆立ちで日本縦断するといった大仕事ができない。ラジオ体操を続ける熱意も、米粒に般若心教を書く根気もない。外見にこだわらないから、だれも注意しなければ着のみ着のままで散髪もせず、不潔である。他人を疑わないから、すぐにだまされて金を取られ、金に執着しないので、いつも貧乏だ。公平で思いやりがあるため、家族だけを特別扱いせず、博愛主義で、浮気が絶えない。

 勇敢だから、怒られることが分かっていても、妻に向かって「おのれの容貌を批判する資格があるのか、お前に」とか、「そこの新聞取ってくれ」といってしまう。家族関係は最悪になるが、まったく気にしない。何事にも落ち込んだりくよくよすることがないから、会社で仕事上の大失敗をしても意に介さず、明るく平然としている。
 これに近い例としてソクラテスやキリストがいる。こういう完璧な人は家庭人や社会人としては失格だが、神に近いともいえるだろう(ここから神は家庭でも社会でもうまくやっていけないことがよく分かる)。

 だが、いくら神に近くても、こういう人と仕事や生活を共にするのは、耐えられないような気がする。普通ならけんかになるところで、こういう人が暴力に訴えることもせず、じゅんじゅんとおだやかな声で説き、こちらの非を反論の余地なく結論づけたりしたら、こちらは暴力に訴えるか、グレるしかない(実際、ソクラテスやキリストは処刑された)。たぶん完璧な人間を理解するには、普通人は不完全すぎるのだろう。まわりの者たちがわたしを理解せず冷遇するのも、無理もない話だ。」

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posted by Fukutake at 08:16| 日記

音による演劇

「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年

芝居問答(對談)sc恆存 小林秀雄 p130〜

 「小林 …眼に比べてね。特に耳を訓練している少数の人々をのぞけば。だからまだラジオ・ドラマをちゃんと聴ける耳を持っている人はいないと思うんですよ。人の声っていうものは、非常に表情に富んだものでしょう。見ないで、声で人間がわかる、そこまで耳の訓練が出来ている人はいないんだよ。ラジオ・ドラマが非常に発達すると、そういう訓練ができるかも知れない。そうすると、見なくても、声のほうがよっぽど表情的でね、ラジオ・ドラマ専門の名優というものが出てくる。 …ぼくら、眼を開けて暮らしているから、耳はおろそかになっている。芝居っていうやつは、眼と耳と両方で鑑賞しているしね。まあ、はなし家や講談師になるとどうかな。たとえば落語だって、話術の生命はやぱり物語を追っているんだけども、同じ物語を何度聴いてもいいでしょ? 何度聴いてもいいというのは、つまり音なんだよ。そいつを聴いて楽しんでいるわけだな。

sc だけど、機械を通した声というものは…。

小林 だからさ、これはまた全然別問題なんだよ。ぼくはね、どんな芸術でも、みんな生きているもんだと思うんだよ。これからラジオ・ドラマがどうなるかということは、なかなか予想できないんだ。

sc ラジオ・ドラマって、一度も聴いたことがないんじゃないですか。

小林 それはありますよ。だけど嫌いなんだ。今話した事もただの空想さ。現物は嫌いなんだ。蓄音機もラジオも嫌いです。ラジオや蓄音機が非常に完全になって、僕の耳が聴きうる以上の音を、全部ラジオが取ってくれれば、これは演奏会で聴くのと同じものでしょう。だけど、それは理論なんで、音楽会の聴衆は音だけを捉えてるんじゃないだからね。蓄音機やラジオは音だけしかくれないでしょう。演奏会っていうものは、あれは一種の劇場ですからね。観客がいる。雰囲気がある。あそこで聴こえてくる音は、いい蓄音機で聴く音よりは、もっと悪いのかも知れないです。だけど、よく聴こえるんです。それはみんなその時の身体のコンディションだね。だから、美学っていうものは社会心理学になるんだな。

sc ラジオ・ドラマでなくて、舞台の中継放送っていうものがあるでしょう。あれは殆ど意味ないんじゃないですか。宣伝広告なら別だけど、少なくともジャンルとしては意味ないですね。野球の中継放送のほうが芸がある。

小林 そりゃそうだ。

sc じゃ、このへんにしておきましょう。」

(「演劇」、昭和二十六年十一月)

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posted by Fukutake at 08:11| 日記