「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
西欧に学ぶもの p184〜
「第一次世界大戦が終わったとき、シュペングラーの『西欧の没落』は流行の書となった。 第二次世界大戦が終わったときにも、トインビーの歴史観が、やはりそういう予言の意味で特別の興味をもたれたようである。 シュペングラーやトインビーの見解は、現代西ヨーロッパの文化のあり方を、古代史のアレクサンドリア時代とかギリシア・ローマ時代のそれに対応させて考えるところから来ているようである。 それはあくまでもかれらの歴史の内部において、内面から理解されるべき文明史的な出来事なのである。
しかしわれわれのところでは、西欧が没落すれば、今度は東洋が興るというような意味にしか理解されなかったのではないか。 トインビー氏が最初に来日したとき、かれのその種の考えを昔日の大英帝国が植民地を失わねばならなくなった現状に関係づけたような質問が出たのを、かれは断乎とした調子で否定し、むしろヨーロッパ世界のうちに第一次大戦のようなものが起こったこと、そのことがショックだったのだと答えていたのを思い出す。
西洋の没落が言われてから既に半世紀、ようやくその事実が目に見えて来たと言えるところかも知れない。 われわれがかれらに追いつき、かれらを追い抜くことができたと思えるのも、かれらのスピードが落ちたためかも知れない。 もしそうだとすると、われわれもそういい気になってばかりはいられないことになる。 三人行けば、そのうちに必ずわが師があるというような言葉もあったかと思う。 もう何も学ぶものはないというのは思い上がりであろう。 われわれは同輩からも後輩からも学ぶことがある。 しかしまた現在のヨーロッパが、われわれにとって何ごとにも手本になるとか、先進国であるというようなこともなくなった。 現在のヨーロッパからいろいろながらくたが輸入されるけれどもそのようなものを一つ一つ有難がっているのは愚かしいことである。 われわれは見わける眼をもたなければならないのである。
むろん漫然とこんなことを言っているだけでは何の意味もない。 わたしがいま考えているのは、斜陽化し没落すると言われているヨーロッパが、もし事実そうなったとき何が残るだろうかと考えるやり方である。 例えば古代ギリシア人のつくった文化は、やがてかれらギリシア人の手を離れて独り歩きするようになるが、現在までのヨーロッパの所産もまた同じように、ヨーロッパ人の手を離れて独り歩きするようになるだろう。 古代のシナ人やインド人がつくったものは、その後かれらの歴史の変化や現在のあり方とは別に、今日のわれわれの文化のうちに貴重な宝として保持されている、 いわゆる中国語の学習は、実用的に現在大きな価値をもっているかも知れないが、教養的な文化価値をもっているかどうかは問題であろう。 しかし漢語、漢文は実用性がなくてもそれ自体で教養的文化的な価値は大きい。 このような区別とか分離が、現在のヨーロッパと永い歴史のうちにかれらのつくったものとの間に出来てくるかも知れないというのが、ヨーロッパの没落の一つの意味である。 われわれがいつまでも学ばなければならないものが何処にあるかは明らかである。」
(「文藝春秋」昭和五十二年三月号 巻頭言)
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自分たちを見直そう
情報化できないもの
「骸骨考」 ーイタリア・ポルトガル・フランスを歩くー 養老孟司 新潮社 2016年
原理主義 p54〜
「宗教体験のような、「体験でしか理解できないこと」は、定義により情報化出来ない。 情報化できない以上、それ自体はウソになりようがない。 ただそういう体験が「ある」ということは、メタ・メッセージとして伝えられる。 そういう体験の存在を疑うのも、ごく普通であろう。 日常生活の中にそういうものが出現することはごく稀だからである。 私が武道家の身体論が好きなのは、宗教体験と同様、いわゆる主観でしかあり得ない境地が、確実に存在することを伝えてくれるからである。 こちらは宗教体験よりもう少し身近で、自分のような俗人でも体験できそうな気がする。
意識中心の世界、現代のいわゆる情報化社会では、情報の発信、受容が大きな比重をしめるようになっている。 若い世代はほとんどスマホに張り付いている。 こういう時代に誤報問題の比重が大きくなるのは当然であろう。 そのくせ、この種の問題を取り扱う部門、いうなればウソ学は、まだ発展していないように思われる。
対面している相手の言い分だって、その真偽を判定するには、おそらく長年の経験が必要なのである。 それがないと、たとえば拷問ということになる。 それで仮に本音が出てきたとしても、それが本当かどうか、じつはわからない。 本人の事実誤認は、いつでもありうるからである。 そもそも拷問のような特殊な状況でなら人は真実を語る、と思うのがヘンなのである。 あんな特殊な状況なら、人はなんだって言う。 それが実際であろう。 拷問が存在するのは、真実の追究とはおそらく理由が違う。 拷問まで行かなくても、弱者の立場に置かれた相手を、自分の意に沿わせようとする努力なら、組織はしばしばやっているはずである。 大学紛争の吊し上げは、逮捕された学生が警察で覚えてきたやり方だという話があった。 私の小学校の同級生が検察がらみの事件に引っかかったことがある。 本人はまったくの無実だった。 だから頑張ったわけだが、その男がよくいうことがある。 「とにかく徹底的にやられたけど、あのくらい厳しくしなけりゃ、悪いヤツは本当のことを言わないよ」、と。 本人は自分が本当だと思っていることしか言えない不器用な男だから、そう思うのであろう。 私なら口から出まかせを言うかもしれない。
若い頃から私は、「筋が通れば、道理が引っ込む」と思っていた。 筋が通るのは一種の快感だから、それはそれでいい。 でも頭の中だけでなく、それで世界を左右しようとすると、とんでもなく問題が生じてしまうことがある。 私は原理主義をそんな風に規定している。 イスラム国もそうだが、原理主義の網の目をどう理解させるか、まだ私は解答を発見していない。」
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原理主義 p54〜
「宗教体験のような、「体験でしか理解できないこと」は、定義により情報化出来ない。 情報化できない以上、それ自体はウソになりようがない。 ただそういう体験が「ある」ということは、メタ・メッセージとして伝えられる。 そういう体験の存在を疑うのも、ごく普通であろう。 日常生活の中にそういうものが出現することはごく稀だからである。 私が武道家の身体論が好きなのは、宗教体験と同様、いわゆる主観でしかあり得ない境地が、確実に存在することを伝えてくれるからである。 こちらは宗教体験よりもう少し身近で、自分のような俗人でも体験できそうな気がする。
意識中心の世界、現代のいわゆる情報化社会では、情報の発信、受容が大きな比重をしめるようになっている。 若い世代はほとんどスマホに張り付いている。 こういう時代に誤報問題の比重が大きくなるのは当然であろう。 そのくせ、この種の問題を取り扱う部門、いうなればウソ学は、まだ発展していないように思われる。
対面している相手の言い分だって、その真偽を判定するには、おそらく長年の経験が必要なのである。 それがないと、たとえば拷問ということになる。 それで仮に本音が出てきたとしても、それが本当かどうか、じつはわからない。 本人の事実誤認は、いつでもありうるからである。 そもそも拷問のような特殊な状況でなら人は真実を語る、と思うのがヘンなのである。 あんな特殊な状況なら、人はなんだって言う。 それが実際であろう。 拷問が存在するのは、真実の追究とはおそらく理由が違う。 拷問まで行かなくても、弱者の立場に置かれた相手を、自分の意に沿わせようとする努力なら、組織はしばしばやっているはずである。 大学紛争の吊し上げは、逮捕された学生が警察で覚えてきたやり方だという話があった。 私の小学校の同級生が検察がらみの事件に引っかかったことがある。 本人はまったくの無実だった。 だから頑張ったわけだが、その男がよくいうことがある。 「とにかく徹底的にやられたけど、あのくらい厳しくしなけりゃ、悪いヤツは本当のことを言わないよ」、と。 本人は自分が本当だと思っていることしか言えない不器用な男だから、そう思うのであろう。 私なら口から出まかせを言うかもしれない。
若い頃から私は、「筋が通れば、道理が引っ込む」と思っていた。 筋が通るのは一種の快感だから、それはそれでいい。 でも頭の中だけでなく、それで世界を左右しようとすると、とんでもなく問題が生じてしまうことがある。 私は原理主義をそんな風に規定している。 イスラム国もそうだが、原理主義の網の目をどう理解させるか、まだ私は解答を発見していない。」
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posted by Fukutake at 10:30| 日記