「人間集団における 人望の研究」 山本七平 祥伝社 昭和58年
「教なければ禽獣に近し」 p153〜
「いったい、非行少年・問題児(いや、戸塚ヨットスクールの生徒の記事に「三〇歳」とあったから、これが誤報・誤植でなければ非行大人だが)などといわれる人に共通な要素は、何であろうか。
ある人はそれが「病的なほど敏感で、恐ろしく高いプライド」だという。 そのプライドをほんのちょっと傷つけられても怒り狂って暴力を揮(ふる)う。 だが、それに傷つけられる「懼(おそれ)」があるから家を出ない。 中にはトイレに隠れて鍵をかけて出て来ない。 仕方なく戸を壊したなどという例もある。 そうなると本人は、そういう社会を「悪(にくむ)」ことになる。
それでいて自分の「欲」の充足は無限で、母親を骨折させて入院させておきながら、「おれが不便だから早く帰ってきてくれ」などと平然と言う。 それは、そうしてもなお母を「愛」し、甘えているからだと言えるかもしれない。 だが「愛して敬せざれば、これ獣畜するなり」(孟子)で、(母親を)飼猫か飼犬のように扱っているということである。
この「病的なほど敏感で、恐ろしく高いプライド」が、「向進」を阻んでいるわけだが、「矜(プライド・自負心)」に問題があることは、『近思録』の「病痛(へいつう)は尽く這(こ)(矜)の裏に在り。 若し這箇の罪過を按伏し得るば、方(まさ)に向進する処有らん」に示されているし、また『箴言』の「高ぶりが来れば恥もまた来る/高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立つ/高ぶりはただ争いを生ずる」にも通ずる。
これもおもしろい言葉である。 というのは、「人はプライドを持たねばならぬ」とか、「もっとプライドを持て」とかよく言われる。 そして「矜(プライド)」のない人間はいないのである。 だが、一方では「病痛」は尽(ことごと)く這(こ)の裏に在り」で、これが人間の向上を妨げる「病痛」の根源であるとも言っている。 これは矛盾ではないであろうか。
だが、「プライドは社会が否応なく持たせてくれるだけ持てはよい」という俗諺もあることも忘れてはなるまい。 その実例は後述するが、確かにそれは、社会が持たせてくれるものであっても、「病的に敏感で、恐ろしく高いプライド」を自ら保持し、それを傷つけられるのを恐れて社会に出て行けなくなってよろしい、ということであるまい。 そういう、「高ぶりは滅びに先立つ」で当然である。
ではいったい、人は何によってこの「病痛」の根源である。 奇妙な「矜(プライド)」を棄て去ることができるのであろうか。 おもしろいことに、それは「畏敬」なのである。
田中美知太郎先生は、「教育の基本は『畏れ』(畏怖・畏敬)だと言われたが、これはギリシア人の考え方であろう。 一方、『ベン・シラ』は、「主(神)を畏れることが知恵のはじまりである」と言い、また『箴言』は、「主(神)を恐れることは知恵のはじまりである」と記す。」
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話のリズム
「宮崎市定全集 20 菩薩蛮記」 1992年
「東風西雅録」より起承転結ー季節 p238〜
「フランス本来のシャンソンには話の筋があって、一曲は大体四段に分かれる。 第一段の男女の出会いから始まり、第二段は恋の成立、幸福のささやきであり、第三段になると一転して、どちらかの裏切り、または感情の衝突で大きく揺れ、第四段は破局のあきらめ、消えさった甘い幸福の追憶で終わる。 但し最近流行しだした筋のないシャンソンは、アフリカ化したアメリカの野蛮人が歌うものだそうである。
起承転結のリズムは日本の歌曲においても認められる。 頼山陽は唐詩の起承転結を会得させるために、日本の俗謡を引いて教えるのを常としたという。
大阪本町 糸屋の娘 (起)
姉が十六、妹が十四 (承)
諸国諸大名は、刀で斬るが (転)
糸屋の娘は目で殺す (結)
起句が糸屋の娘で始まり、結句の糸屋の娘で終わる、歌曲の回帰性を示した例である。 この淵源を尋ねて行くと、古い今様にまで遡れる。 『平家物語』に出てくるが、
古き都に来て見れば (起)
浅茅が原とぞ荒れにける (承)
月の光はくまなくて (転)
あきかぜのみぞ身に沁む (結)
の例では、起句と結句だけで意味は分かるのだが、その中間に承転があって初めて詩になっている。
起承転結の四部は省約して三部に縮めることができる。 この場合、起承を一つに纏めるか、転結を一つにするかのどちらかであって、その結果できたのが、すなわち雅楽の序・破・急のリズムである。 シャンソンにもその省約形が多いという。
春夏秋冬の四季の循環は温帯に特有の現象であって、熱帯夜寒帯にはそれが現われない。 熱帯、亜熱帯はいつも暑い常夏の国で、もしあれば乾季と雨季の区別が著しいだけである。 寒帯は常に寒いが、日の長い夏と夜の長い冬とが交互に訪れる。 日の長い夏には、気候もそれに従ってやや温暖となる。 それが内陸である場合には相当の熱度に上り、牧草が繁茂して獣群を放牧するこのとできる土地もある。 蒙古地方などはその例である。」
(『中国古典文学大系』近世随筆集」月報46、一九七一年九月)
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「東風西雅録」より起承転結ー季節 p238〜
「フランス本来のシャンソンには話の筋があって、一曲は大体四段に分かれる。 第一段の男女の出会いから始まり、第二段は恋の成立、幸福のささやきであり、第三段になると一転して、どちらかの裏切り、または感情の衝突で大きく揺れ、第四段は破局のあきらめ、消えさった甘い幸福の追憶で終わる。 但し最近流行しだした筋のないシャンソンは、アフリカ化したアメリカの野蛮人が歌うものだそうである。
起承転結のリズムは日本の歌曲においても認められる。 頼山陽は唐詩の起承転結を会得させるために、日本の俗謡を引いて教えるのを常としたという。
大阪本町 糸屋の娘 (起)
姉が十六、妹が十四 (承)
諸国諸大名は、刀で斬るが (転)
糸屋の娘は目で殺す (結)
起句が糸屋の娘で始まり、結句の糸屋の娘で終わる、歌曲の回帰性を示した例である。 この淵源を尋ねて行くと、古い今様にまで遡れる。 『平家物語』に出てくるが、
古き都に来て見れば (起)
浅茅が原とぞ荒れにける (承)
月の光はくまなくて (転)
あきかぜのみぞ身に沁む (結)
の例では、起句と結句だけで意味は分かるのだが、その中間に承転があって初めて詩になっている。
起承転結の四部は省約して三部に縮めることができる。 この場合、起承を一つに纏めるか、転結を一つにするかのどちらかであって、その結果できたのが、すなわち雅楽の序・破・急のリズムである。 シャンソンにもその省約形が多いという。
春夏秋冬の四季の循環は温帯に特有の現象であって、熱帯夜寒帯にはそれが現われない。 熱帯、亜熱帯はいつも暑い常夏の国で、もしあれば乾季と雨季の区別が著しいだけである。 寒帯は常に寒いが、日の長い夏と夜の長い冬とが交互に訪れる。 日の長い夏には、気候もそれに従ってやや温暖となる。 それが内陸である場合には相当の熱度に上り、牧草が繁茂して獣群を放牧するこのとできる土地もある。 蒙古地方などはその例である。」
(『中国古典文学大系』近世随筆集」月報46、一九七一年九月)
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posted by Fukutake at 09:25| 日記