2023年01月24日

人間は支配されたがる

「ペルシャ人の手紙(上)」 モンテスキュー作 大岩誠 訳 岩波文庫

第十四信 p53〜

 「毎日、国民が増えて行ったので、トログロディト人たちは、一人の国王を選んだ方がいいと云う確信を抱いた。一番正しい人に、王冠を委ねなければと、意見が纏まった。すると人々の視線は、年配と、昔乍らの有徳で敬慕されている、一人の老人に、一斉に集った。この老人は、こうした集りに出ていたくはなかったので、家に帰って閉じ籠り、胸は悲しみに閉ざされた。

 彼の許へ、彼が選ばれたから承諾するようにとて、使者が来た時、彼は云った『神は、私がトログロディト人に向って、この罪を犯し、又、あの人たちが、自分たちの中に、私よりもっと正しい人は誰も居ないと信じられるなどのことをお喜びにならない! 皆さんは、私に王冠をおまかせになるのだ、だから若し、皆さんがどうしてもお望みならば、私はお受けしなければいけないでしょう。しかし、お忘れにならないで下さい。私はトログロディトが、自由な身に生まれついているのを見て来ていて、今日になって、主持ちの身になるのを見せつけられて、悲しくて死にそうだということを』こう云って、老人は潸然と*涙を流し始めた『悪日だ、そして、私はどうしてこんなに生き永らえられたのだ?』と彼は、厳しい声音で叫んだ『私には、能く事の仔細が判る。おおトログロディトの人たち! 君たちの徳義心は、君たちを圧迫し始めたのだ。現在の状態では、主人を持たないから、自分の気持ちに叛いても、徳義心を守りつづけなければならない。そうでなければ、生きては行けまい。その草分けの先祖たちが犯した不幸な目に会うだろう。が、この軛(くびき)は、君たちには重すぎるようだ。君たちは、君主に従い、君たちの仕来たりより、もっと楽な君主の法律に服している方が、ずっといいと思っている。そう云う時になると、君たちは野心を遂げることも出来ること、富も積めること、緊りのない不純な楽しみに、心を砕くこともできること、それで、ひどく罪を犯さないように気をつけるためには、徳義など要らないことを、君たちは知っている。』

 一寸の間、言い淀んだ、そして今まで見たこともない位に、激しく涙が流れた『ああ、諸君は私に何をさせようと思っておいでなのか。それを云い附けるから、その人が何か有徳な行いをすることを、お望みなのか、その人は、私が居なくても、自然の儘の傾向だけで、変わりなく、その行いをするのだのに。おお、トログロディトの人々! 私の生命は今日限りだ。血は血管のうちに凍る。尊い御先祖に、また、お目にかかるのも、間もないことだ。皆さんは、どうして、私が御先祖に御心労を掛けて、あの方々に、私が皆さんを、善徳とは違ったものの軛に苦しむにまかせて来たと、申上げねばならぬようにさせようとなさるのじゃ』

(一七一一年氷月の十日 エルぜロンより)
潸然(さんぜん)と* さめざめと

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自由に堪えられない人間のサガ




posted by Fukutake at 08:02| 日記

写すに手なし

「小林秀雄全集 第十巻」− ゴッホの手紙 − 新潮社版 平成十四年

「天井桟敷の人々」を見て p160〜

 「フランス映畫「天井桟敷の人々」の試瀉を見せてくれるといふので出かけたが、三時間半の長編だと言はれて恐れをなした。二日酔ひで頭も重く、大概、途中で寝て了ふであらうと思つて、坐つてゐたが、たうたう終ひまで眼を開けてゐた。何がそんなに樂しかつたのか、私にははつきり言ふ事が出来ない。從つて感想を求められても困るのであるが、出来のよい映畫といふものは、皆そんなものであらうか。

 役者は大變巧みだと思つた。科白(せりふ)なども私の語學力で推察出来た限り、見事なものだと思つた。筋も登場人物の心理や性格も、まことに陳腐なものであるが、陳腐であればこそ、監督も役者も、あれだけにまとめ上げられたに相違ない。

 或る雜誌の座談會で、梅原龍三郎さんがこんな事を言つてゐた −−
「要するに繪といふものは、物を寫してゐて決して間違ひないもので、相撲に押すに手なしと言ふ如く、繪かきも寫すに手なしと言へるのだ」

 面白い言葉だ。ピカソの仕事だつて其處から始まつてゐるに違ひないのである。役者なら物眞似に手なしと言ふべきであらうが、原作によつて、どんな人間の物眞似を強ひられるか解らぬのが辛い處であらう。コクトオやサルトルの斬新な映畫を見てゐると、役者のこの辛い處がよく感じられるやうに思ふ。サルトルの「汚れた手」の映畫が来たが、これではとても入りがあるまいといふ事で、封切は止めになるさうである。試瀉を見たが、成る程さういふものだ。大衆的魅力を缺いてゐるといふ事は、何んとしてもこの映畫の大缺點であると思つた。登場人物は、皆めいめいの複雜な奇怪な孤獨を抱いてゐて、本来ならお互いに劇など起こしたく連中なのである。それがひよんな事から劇を始める。まるで劇といふメカニズムを強ひられたやうなものだ。これでは役者が辛い。梅原さんの言ふのとは全く違つた意味で物眞似に手なしである。眞似をしようにもお手本の人間は既に壊れてゐる。」

(「讀賣新聞」、昭和二十七年二月)

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posted by Fukutake at 07:56| 日記

2023年01月23日

話は残酷のほうがおもしろい

「本は鞄をとびだして」 群ようこ 新潮文庫 平成七年

「グリム童話」噂が一番面白い p180〜

 「醜よりは美、貧よりは富、そして地位や名誉が、昔から延々と語りつがれてきた話のだいたいの基本である。 岩波文庫版の金田鬼一氏の序を読むと、おはなし、童話を指す「メールヒェン」ということばは、語源的に検討すると、「かがやく」「知れわたりたる」という意味の形容詞から、著者ーうわさーうわさの知らせー口誦(こうしょう)、口演、ものがたりとなるそうである。 評判になってしれわたったものは、人々の間にうわさの種をまいて、語りつたえられているうちに、なんらかの点で具合の悪いところは自然に淘汰されて、「おはなし」になったという。 そしてドイツの人々はひまつぶしにこのようなお話を楽しんだ。 つまり口から口へとつたえられた、民間の話が根っこにあったわけである。 私は遅ればせながらこの本の序を読んで、目からウロコが落ちた思いがした。

 アメリカの民俗学者ジャン・ハロルド・ブルンヴァンの都市伝説、都市の噂を集めた、「消えるヒッチハイカー」「チョーキング・ドーベルマン」「メキシコから来たペット」に載っている不気味な話、笑っちゃいけないけど、薄笑いを浮かべたくなるような話。 時代は違えど、人の口から口へと渡ってきたお話は、明らかに類似している。 残酷で差別的で、薄気味悪い。 本来、人間が大好きな部分がたくさんの人の口を経て一つの型になっていく。 それが美しいお話が多いのではなく、金持ちが貧しい人を助けたり醜くても心の美しい娘が王妃になる話ではなく、美人は優しく醜い女は意地悪といった明快な図式。

 悪い奴には慈悲の心などみじんもみせずに、すぐさま命を奪って大喜びする単純さ。 このような話には悪い奴がいなきゃ、面白くないに決まってる。 そして何ともいえない不愉快な雰囲気をかもし出す話。 どれもこれも人間が好きなものばかりだ。
 私はブルンヴァンの本を読み、大喜びして友だちに話を聞かせた。 話をきいた友だちも、大喜びして別の人に話した。
「こんな話、あるのー」
 といいながら、いいことをきいたと、うれしくてたまらない。 きっと大昔のドイツの人々も、ひまつぶしに同じようにしていたのではないだろうか。 釘を打った樽づめにされた母と娘が、川に落ちて死んだ話をきいて、
「へー、気持ち悪い話だねえ」
といいながらも、胸をわくわくさせていたのかと思うと、また改めて噂の本として、グリム童話を全編読みたくなってきたのである。」

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正直者が幸せになるより、悪人を殺す話のほうが心に残る。

posted by Fukutake at 09:14| 日記