2022年12月27日

月天心 貧しき町を通りけり

「与謝蕪村 郷愁の詩人」 萩原朔太郎著 岩波文庫

秋の部(2)p72〜

     秋風や干魚(ひうお)かけたる 浜庇(はまびさし)
 海岸の貧しい漁村。家々の軒には干魚がかけて乾してあり、薄ら日和の日を、秋風が寂しく吹いているのである。

     秋風や酒肆(しゅし)に詩うたふ魚者樵者(ぎょしゃしょうしゃ)
 街道筋の居酒屋などに見る、場末風景の侘しげな秋思である。これらの句で、蕪村は特に「酒肆」とか「詩」とかの言葉を用い、漢詩風に意匠することを好んでいる。しかし、その意図は、支那の風物をイメージさせるためではなくして、或る気品の高い純粋詩感を、意図的に力強く出すためである。…子規一派の俳人が解した如く、蕪村は決して写生主義者ではないのである。

     月天心 貧しき町を通りけり
 月が天心にかかっているのは、夜が既に更けたのである。人気(ひとけ)のない深夜の町を、ひとり足音高く通って行く。町の両側には、家並みの低い貧しい家が、暗く戸を閉ざして眠っている。空には中秋の月が冴えて、氷のような月光が独り地上を照らしている。ここに考えることは人生への或る涙ぐましい思慕の情と、或るやるせない寂寥とである。月光の下、ひとり深夜の裏町を通る人は、だれしも皆こうした詩情に浸るであろう。しかも人々はいまだかつてこの情景を捉え表現し得なかった。蕪村の俳句は、最も短い詩形において、よくこの深遠な詩情を捉え、簡単にして複雑に成功している。実に名句と言うべきである。

     恋さまざま願いの糸も白きより
 古来難解の句と評されており、一般に首肯される解説が出来ていない。それにもかかわらず、何となく心を牽かれる俳句であり、和歌の恋愛歌に似た音楽と、蕪村らしい純情のしおらしさを、可憐になつかしく感じさせる作でもある。私の考えるところによれば、「恋さまざま」の「さまざま」は「散り散り」の意味であろうと思う。「願いの糸も白きより」は、純粋な熱情で恋をしたけれども −−である。またこの言葉は、おそらく蕪村が幼時に記憶したイロハ骨牌か何かの文句を、追憶の聯想に浮かべたもので、彼の他の春の句に多く見る俳句と同じく、幼時への侘しい思慕を、恋のイメージに融かしたものに相違ない。蕪村はいつも、寒夜の寝床の中に亡き母のことを考え、遠い昔のなつかしい幼時をしのんで、ひとり悲しく夢に啜り泣いていたような詩人であった。」

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月天心。
posted by Fukutake at 10:21| 日記

「天」は絶対か?

「日本的革命の哲学」 山本七平 PHP 昭和五十七年

民の声は神の声? p20〜

 「『孟子』と『申命記・サムエル記』を読み比べると、『孟子』の方がはるかに楽観的で単純だといえる。 旧約聖書は神政制をとるか王制をとるか、「民の声」にその選択権を認めているものの、民の選択が自動的に正しいとは認めていない。 一方『孟子』には、政治体制の選択という考え方は全くなく、体制は王制に限定されているとはいえ、その中での選択では、人民とはa誤りなきものとしている。 ではなぜそう言えるのか。 孟子は次のように述べる。

 「万章曰く、堯は天下を舜に与う、と。 諸(これ)ありや。 孟子曰く、否、天下は天下を以て人に与うること能わず、と。 然らば即ち舜の天下を有(たも)つや、孰(たれ)かこれを与えし。 曰く、天これを与う、と。 天のこれを与うるは、諄(じゅん)々然として(懇切丁寧に告げて)これを命ずるか。 曰く、否、天言(ものい)わず、行ないと事とを以てこれを示すのみ。 曰く、行ないと事とを以てこれを示すとは、これ如何。 曰く、天子は能く人を天に薦めて天これを受く。 これを民に暴(あら)わして民これを受く。 故に曰く、天言わず、行ないと事とを以て、民にこれを受くとは、如何。 曰く、敢えて問う、これをして祭を主(つかさど)らしめて百神これを享(う)く。是れ天を受くるなり。 これをして事を主らしめて事治り、百姓これに安ず、是れ民これを受くるなり。 天これを与え、人これを与う。 故に、天子は天下を以て人に与うること能わず、と曰えるなり。…」

 この万章という人は相当に突っ込んで質問する人なので、特に解説をする必要はないであろう。 結局、いかに舜が避けても、朝覲する者も、訴訟する者も、謳歌する者も、みな、堯の子の方に行かず舜の方に来てしまった。 となると、孟子のいう「天」とは自動的に「人民の意志」であることが明白になっている。 というのはそれ以外の天の意志の確認は、祭祀の神主をつとめてこれが百神に嘉納されるか否かだけだからである。 従って結論は「天の観るはわが民の視るに自(したが)い、天の聴くはわが民の聴くに自う」(天子は目がないが人民の目によって見、天は耳がないが人民の耳によって聞く)になる。 そうなると「天子は天下を以て人に与うること能わず」「天子は能く人を天に薦むれども、天をしてこれに天下を与えしむること能わず」の「天」を「人民」としてよいこととなり、天子は自分の後継者を人民に推薦することはできるが、それ以上のことはできず、それをうけ入れるか否かは人民の意志ということになるであろう。

 これは「天=誤りなきもの=人民」という考え方が前提となっているはずである。 日本の革新派などにある無条件の「人民信仰」は西欧的というよりもむしろこの伝統に基づくものであろう。 というのは「民の声は神の声」といっても、聖書はそう簡単に自動的にそれを認めているわけではないからである。 民は一面において常に神に反逆するものだからである。」

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posted by Fukutake at 10:19| 日記