2022年12月26日

満洲開拓の少年たち

「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年

満州の印象(抄) p21〜 

 「孫呉に着く。美しい午前である。舞ひ上る粉雪が風の中でキラキラ光る。満蒙開拓青少年義勇孫呉訓練所といふものを、満州拓殖公社の山口君の案内で、と書いてもどうしてもかういちいち面倒臭い名前を附けるのだらう、と訝しいのだが、兎も角今日はそれを見學にいくのである。この種の仕事の名目が、不必要に厳しく難かしいのは、仕事の或る弱點を語つてゐるやうに思はれる。…

 僕が行つたのは十一月上旬であつたが、もう零下二十二度と言はれた。準備の整はないうちに冬は来て了つたのである。棟上げだけ濟ませた家が、空しく並んでゐるのが見られた。出来上がった泥壁に藁葺の宿舎の形こそ大きいが、建築の粗漏な點では、一般満人の農家にも劣るであらう。はじめ少年の手で建てられた天地乾坤造りとかいふ小屋は、夏が近づいてみると濕地の上に建つてゐたことが判明し、移轉に手間どつた上に、未曾有の長雨に遭つて、かういふ始末になつたと聞かされたが、無論この説明は、世人を納得させるに足りないのである。…

 凍つた土間に立ち、露はな藁葺の屋根裏を仰ぎ、まちまちな服装で、鈍い動作で動いている、浮かぬ顔の少年達を眺めただけで、僕は、もうどの様な説明も自分の重い気持ちを動かす事は出来ないのを感じた。僕はどんな質問をしようとも思はなかつた。
 部屋の中央には、細長いペエチカが二つあつて、いい音をして燃えてゐのだが、未だ二重窓も出来ぬ、風通しのいい部屋の氷を溶かすわけには行かない。やがて暗いランプが點り、食事になつた。少量のごまめの煮付けの様なものに、菜っ葉の漬物がついてゐた。僕は不平など書いてゐるのではない。内原の訓練所には少年の榮養研究班なるものがあつたのを知つてゐるから、参考の爲に書いて置くのである。…

 僕は少年達の宿舎に案内された。暗いランプの光では、そこにギッシリ詰つた少年達の顔を、はつきり見分けることは出来なかつた。室内は、本部の部屋よりも暖かい様に思はれたが、煙がひどかつた。少年達の眼が、自分に注がれてゐるのを感じ、彼等が笑ふ様な話がしたいと思つて、胸が塞がつた。僕は、元氣で奮闘して貰ひたいという意味の事を、努めて元氣な聲を出して喋つた。そして一ぱい汗をかいた。…
 特に僕を驚かしたのは、訓練生達の實に潑刺とした表情であつた。それは朝鮮で見た、唯一の美しい顔であつた。同行の張赫宙君と、歸りがけに連れ書小便をしてゐると、彼は突然どうも考えが纏まらぬといふ風な顔で「ああいふ顔は、僕等の知らなかつたものです」と言つた。
 僕はいつの間にか、そんな想ひ出に耽ってゐた。此處にあるのは訓練ではない、單なる缺乏だ。物の缺乏が、精神の訓練を装つてゐるに過ぎない。…

 間もなく僕は、はつきりと理解した。そして一種言ひ様のない同情の念を覺えた。少年達の顔には何等難解なものはなかつたのだ。見る僕の心の方が氣難しかつたに過ぎない。彼等の顔は明けぱなしの子供の顔なのだ。まさしく困難な境遇に置かれた時の子供の心そのままの顔なのだ。…」
(「改造」昭和十四年一月)

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小林秀雄の慟哭
posted by Fukutake at 08:04| 日記

マキ(屋号)+名前

「遠野物語」 柳田國男 新潮文庫

遠野物語拾遺より p177〜

 名前、あだ名
「二四九 以前は家々がそれぞれのマキに属して居た。マキは親族筋合を意味する言葉である。右衛門マキ、兵衛マキ、助マキ、之烝マキなどの別があり、人の名はマキによって称するのが習いであった。佐々木君の家は右衛門の方であった。姓は無くて、代々山口の善右衛門と称し、マキには吉右衛門、作右衛門、孫右衛門、孫左衛門などと謂う家があった。」

「二五〇  人の名を呼ぶ場合には、必ず上に父親の名を加えて呼ぶ。例えば春助という人の子が勘太である時は、息子の方を春助勘太と呼び、小次郎の息子の万蔵の世ならば、小次郎万蔵と呼ぶ。同じようにして、善右衛門久米、吉右衛門鶴松、作右衛門門角、犬松牛、孫之丞権三などがあり、女の方も長九郎はるの、千九郎かつなどと謂った。又女の子に昨今面倒な漢字が用いられるようになったのは、他の地方にも通ずる同様な傾向であろう。」

 「二五一  綽名の類も亦甚だ多い。法螺を言うから某々法螺、片目であるから某々メッコ、跛(びっこ)だから某々ビッコ、テンポであるから某々テンポなど言う例は、此郷では何処へ行っても普通である。新助爺という老人はヤラ節が巧みであった為に、新助ヤラとばかり謂って他の名を呼ばなかった。至って眼が細い女をお菊イタコ、丈が人並み外れて低かったのでチンチク三平、その反対背高であったから勘右衛門長(なが)、また痩せっぽちの男を鉦打鳥に見立てて鉦打長太などと謂う例もあった。盗みをしたためにカギ五郎助、物言いが何時も泣き声なのでケエッコシ三五郎、吃りであるからジッタ三次郎、赭ら顔が細いのでナンバンおこまなど言った例の他に、体の特徴をとって、豆こ藤吉、ケエッペ福治、梟留、大蛇留などとも謂った。歩き様を綽名にしたものには、蟹熊、ビッタ手桶、カジカ太郎、狐おかん、お不動かつなどがあり、おかしかったのは、腕を振って歩く小学校の先生を腕持ち先生、顔の小さな小柄の女先生を瓜こ姫こなどと謂った例のあったことである。」

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瓜子姫子が目に浮かびます。

posted by Fukutake at 08:01| 日記