「経済論理学序説」 西部邁 中央公論社 昭和五十八年
無知の知の喪失 p86〜
「(ケインズ以降)野蛮に破砕されていったのは、自由主義体制にとっての哲学的基礎であるはずの”無知の知”の立場、つまり人間の知ることがいかに少ないかを知るという知的廉直の立場である。 その挙句、経済学という名の島国にあっては、自分らの駆使している”科学的”知識なるものが技術イデオロギーの侍女なのかもしれぬと考えてみるような人はまずいない。
私は懐疑なき心性をもって大衆人の最大の特徴とみなすのだが、そうだとすれば、経済学はすでに大衆人によって占拠さえたわけである。 しかしこの島国の現代は、エコノミック・アニマルの島国ニッポンがそうであるように、幸せでもないし仕合せでもない。 「つまりわれわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかが分からないのである。 つまりあらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。 われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的にはもっと不幸な時代として波間に漂っているのである。 ここから、現代人の心に巣食っているあの優越感と不安感という奇妙な二元性が生まれている」(オルテガ)のである。
たとえば、近年、”利用しうるすべての情報を効率的に用いて” 合理的期待を形成すれば、人々は市場の均衡価格を平均して正しく予測することだでき、その場合、ケインズ的な裁量政策が無効となることが証明されている。 私はそうかも知れぬとあっさり認めるし、かほどに合理的であると想定してもらえれば市場に参加する大衆もさぞかし優越感にひたれるであろうと察しもする。 しかし、いわゆる合理的期待形成仮説によって取扱われている情報は、経済学において通常そうであるように、人間の意図的に操作する工学的な情報にすぎない。 しかし人間は情報を操作するだけでなく、情報によって操作されるものであるものでもあるのだ。
つまり、価値やイデオロギーや伝統や慣習やといった社会的な情報によって、人間は社会のなかに住み処を与えられる。 そして今や、これらの社会的情報の意味内容が技術のがわに決定的に傾き、そこから私たち大衆の不安感がたちこめてくる。 そして、優越感と不安感のせめぎ合いの中から、進歩の幻想をこね上げて、近未来の改革やら革新やら改善やらへむけてひたすらに疾走する、もしくは逃走する、それが私たちの姿ではないのか。 このような心理の総体が私たちの、良くも悪くも、期待というものではないのか。」
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自分たちが得た情報(社会への信頼)に満足する一方で、逆にその情報に惑わされる。
ご飯の功
「またたび回覧板」 群ようこ 新潮社 1996年
人生最後の食事 p170〜
「私は御飯が好きだ。 先日、ある男性と話をしていたら、彼が、
「人生の最後の食事として何が食べたい?」と聞いた。
「そうだなあ。 まず御飯ね。 そしておかずは、鮭の焼いたの。 鯵の干物でもいいかな」
そう答えたら、彼は大きくうなずき、
「やっぱり御飯だよね。 僕はそれにみそ汁とトンカツと漬物があったらいいな」
などとうっとりした目つきになったので、
「そんなに食欲があるんじゃ、最後の食事じゃないよ。 そのあと五十年くらい、生きるんじゃないの」
といったのだが、なかには最後の食事にラーメンといった人もいるそうだ。 確かにラーメンもおいしい。 年に何度か、「毎食、ラーメンでいいや」と思うときもある。 だけどどうしても御飯は基本中の基本で、私にとっては空気みたいに必要なものである。
昭和二十九年生まれの私は、今までそんなに感じなかったが、若い人と話をしていたりすると、戦後の影響をまだひきずっている時代に生まれたことを気づかされる。 だいたい食べていた献立が違う。 当時は煮物だとか鰯の丸干しだとか、純和風の食べ物ばかりだった。
「おやつちょうだい」
というと、昆布やするめやじゃこを口のなかに放り込まれ、いつまでもしゃぶっていた。
日本人の私は、御飯を食べると力がわいてくる。 うれしいときには、御飯を何杯もおかわりできるし、悲しいときは御飯を噛んでいると、
「いつまでも悲しがっていても、しょうがないか」
という気分になってくる。 物事がうまくいかないとき、気分がすぐれないとき、物ごとにけじめをつけなくなったときに食べるのは、パンでもパスタでもなく、やっぱり御飯なのだ。
常連ではないのだが、私が二度ほど行った都内の某店は、料理はもちろんだが、そこで最後に出される御飯が最高においしい。 最初に行ったときは、生まれてこのかた、こんなにおいしい御飯を食べたことがないと感激し、ひと口食べて、「ああ、おいしい」と思わずつぶやいてしまったくらいなのだ。 おかずはかぶのお漬物だけなのに、いつもおかわりをしてしまう。 こんな御飯を食べたときが、私の至福の時間である。 おいしい御飯が毎日食べられたらと思うが、なかなかそうはいかない。 至福の時間を持つために、どうやっておいしい御飯を炊くかというのが、目下の私の課題になっているのである。」
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人生最後の食事 p170〜
「私は御飯が好きだ。 先日、ある男性と話をしていたら、彼が、
「人生の最後の食事として何が食べたい?」と聞いた。
「そうだなあ。 まず御飯ね。 そしておかずは、鮭の焼いたの。 鯵の干物でもいいかな」
そう答えたら、彼は大きくうなずき、
「やっぱり御飯だよね。 僕はそれにみそ汁とトンカツと漬物があったらいいな」
などとうっとりした目つきになったので、
「そんなに食欲があるんじゃ、最後の食事じゃないよ。 そのあと五十年くらい、生きるんじゃないの」
といったのだが、なかには最後の食事にラーメンといった人もいるそうだ。 確かにラーメンもおいしい。 年に何度か、「毎食、ラーメンでいいや」と思うときもある。 だけどどうしても御飯は基本中の基本で、私にとっては空気みたいに必要なものである。
昭和二十九年生まれの私は、今までそんなに感じなかったが、若い人と話をしていたりすると、戦後の影響をまだひきずっている時代に生まれたことを気づかされる。 だいたい食べていた献立が違う。 当時は煮物だとか鰯の丸干しだとか、純和風の食べ物ばかりだった。
「おやつちょうだい」
というと、昆布やするめやじゃこを口のなかに放り込まれ、いつまでもしゃぶっていた。
日本人の私は、御飯を食べると力がわいてくる。 うれしいときには、御飯を何杯もおかわりできるし、悲しいときは御飯を噛んでいると、
「いつまでも悲しがっていても、しょうがないか」
という気分になってくる。 物事がうまくいかないとき、気分がすぐれないとき、物ごとにけじめをつけなくなったときに食べるのは、パンでもパスタでもなく、やっぱり御飯なのだ。
常連ではないのだが、私が二度ほど行った都内の某店は、料理はもちろんだが、そこで最後に出される御飯が最高においしい。 最初に行ったときは、生まれてこのかた、こんなにおいしい御飯を食べたことがないと感激し、ひと口食べて、「ああ、おいしい」と思わずつぶやいてしまったくらいなのだ。 おかずはかぶのお漬物だけなのに、いつもおかわりをしてしまう。 こんな御飯を食べたときが、私の至福の時間である。 おいしい御飯が毎日食べられたらと思うが、なかなかそうはいかない。 至福の時間を持つために、どうやっておいしい御飯を炊くかというのが、目下の私の課題になっているのである。」
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posted by Fukutake at 08:44| 日記