「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
生類憐れみ p221〜
「徳川五代将軍が「生類憐れみ」の布告を出したために、庶民がひどい目にあわされた話はよく知られている
いったい生類憐れみや動物開放の考えのおかしさは、どこにあるのだろうか。 それは愛を人類だけにとどめず、これを動物一般、生類一般に拡大し、あたかも全世界、全宇宙を自分の愛のふところに抱きかかえて、神や仏になったような、高尚な心境に遊びながら、実際はお犬さまやお猿さまのことしか考えていないという、大と小の奇妙な取り違えに少しも気づいていない愚かしさにあると言うべきであろう。 愚かしさはひとを笑わせるのである。 しかしその愚かしさが力をもつとき、わたしたちは恐怖のどん底に追い込まれる。
いわゆる自然保護の主張者のうちには、自然を侵害する人類に対する憎悪のために眼を血ばしらせている人もある。 こうなると、同じ動物愛のスローガンを揚げていても、その間の対象となる動物が全くちがっていて、一方は猿のことばかり考え、他方は人間のことばかり考えていて、話は一向にまとまらないことになる。 あるいはもう一段高い立場に立って、この実験はやがて動物全体を生命の危険から守ることんなるかも知れないから動物愛の見地からもこの実験は許されてもいいのではないかと言う人も出て来るかも知れない。 しかし全動物のために、まず人間が犠牲になるべきか、それとも猿やマウスやラットが犠牲になるべきかということが依然として争点になって、問題はなかなか片づかないだろう。
話をもう少しこわい計算問題に移すと、例の広島への原爆投下について、アメリカの士官学校生徒に日本のリポーターのような人が、あれは正しかったかと質問していたが、かれらはほとんど一斉にイエスと答えるのをテレビで見た。 その理由は何かとの質問に対して、かれらは兵士たちの犠牲を少なくするために当然のことだと答えていた。 これはトルーマン大統領の理由でもあったように記憶する。 ここで人類愛とか生命の尊重とかいう大命題をもち出しても、それは先の動物愛の論争と同じように、尊重さるべき生命、愛すべき人類が具体的に全く別になっているから、問題はなかなか片づかないのである。 先ごろペン大会に出席したアメリカの文学者が、きわめて遠慮深い言い方をしながら、もしあの時原爆の投下がなかったら、戦争はすぐには終わらず、日本の本土が戦場となり、彼我ともに無数の人命を犠牲にしなければならなかっただろうという意見も一部にあることを紹介していた。 つまり広島の尊い犠牲が他の多くの人命を救ったのだという考えである。
アメリカでは、商業的な捕鯨を禁止しない日本政府の冷淡さに対して「グリーン・ピース」とかいう市民団体が、動物愛の精神から日本航空のボイコットを呼びかけているとのことである。
「緑と平和」はいまや世界的な大義名分になりつつあるのか、わが国でもこれに似たスローガンで市長を更迭させる運動があったようである。 そうかと思うと、また逆に動物愛護も何のその、ニホンカモシカや何かを退治しなかったからというので、この動物に畑を荒らされた人たちが、国家賠償法にもとづく訴訟を起こすとかいう話である マスコミの報道では、小さく狭い考えが大きな名前をつかって自己主張をする騒ぎが泰平日本の至るところに見られるようである。 この種の聖者の行列に対して、われわれはただ脱帽するばかりでいいのだろうか。」
(昭和六十年二月号「文藝春秋」巻頭言)
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古今の戦争は強者が幼稚な独りよがりの「小さく狭い」考えを他におしつけることで起こった。
保守主義
「思想の英雄たち」ー保守の源流をたずねてー 西部邁 文藝春秋 1996年
エドマンド・バーク 保守的自由主義の源流 p32〜
「反逆者(改革者)たちは自分たちが新たな法体系を創造するといいつのる。 しかしそれこそが急進主義の弊害の最たるものである。 保守思想にあっては人間の知性および特性の両面にわたる不完全性が大前提とされている。 フランス革命を準備した進歩主義者の始祖たちつまり啓蒙思想家たちにとってのうるわしき大前提であったペルフェクティビティ(完成可能性)を真底から疑うのでなければ人間・社会についての話が始まらぬとバークは断言した。 この至極当然のはずの断言が進歩主義にあっては大きく揺るがされているのである。 進歩主義とは、新しき変化は晩かれ早かれ良き結果をもたらすと思い込む独断(ドグマ)のことである。 ードグマとは、その原義によれば「良きことのようにみえる」という意味だー。 なぜそんな見え方になるかというと、ほかでもない、人間・社会が変化の流れをつうじて完成へと近づいているというペルフェクティビティの独断にはまったからである。
おのれの不完全性を知悉した人間がどの変化をいかに実現すべきかを慎重に考慮するに当たって頼りにするのが、時効を有するものとしての伝統である。 伝統と照合させなければいかなる変化にも飛び付くまいとしている保守思想は、いきおい、漸進的にしか変化を受容しないことになる。 しかし漸進主義はそれを行うものが不活発であることを意味しない。 まったく逆なのだ。 曲芸師が一本の綱の上で平衡を保とうとするとおびただしい緊張と活力が彼の心身をつらぬいているのとちょうど同じように、保守思想は変化の種類を見極めその度合いを測定する作業に、いわば静かに熱狂しているのだ 中庸(モデレーション)を保つことにおいてのみ人知れず熱狂する、それが保守思想の根本姿勢だといってもよい。 そして綱渡りにおいて曲芸師が手にする一本の平衡棒とちょうど同じような何の変哲もないもの、しかし人間社会の命綱ともなる大切なもの、それが伝統なのである。 そしてバークは伝統の本質は人々の共有(コモン)される普通(コモン)の法体系にありとみたのである。
もう一つ大事なのは、やはり綱渡りにあって曲芸師の視線が向こうの目的地をまっすぐみつめているのとちょうど同じように、漸進主義は理想を凝視することをやめない。 彼岸の理想が何ものであるかを明確に語ることは不可能にしても、それへの示唆は伝統のなかの宗教感覚や道徳感情のうちに含まれている。 「道徳なき権力は専制であり、宗教なき道徳は不安定である」バークがいったのはその意味においてであろう。
バークは「人間の権利(ヒューマン ライト)」なんぞ認めはしなかったが、「イギリスの権利」については存分に認めた。 これをさしてバークにおける国家主義やら民族主義やらを指摘するものが跡を絶たないが、それは莫迦げた物言いというほかはない。 彼のいいたかったのは、どんな権利も国民性を帯びているということについてであった。 権利とは法によって許されている行為の可能性ということにすぎず、そして歴史の産物としての法の体系が国民性と無縁でいることなどできない相談だということである。」
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保守主義の真髄、伝統。
エドマンド・バーク 保守的自由主義の源流 p32〜
「反逆者(改革者)たちは自分たちが新たな法体系を創造するといいつのる。 しかしそれこそが急進主義の弊害の最たるものである。 保守思想にあっては人間の知性および特性の両面にわたる不完全性が大前提とされている。 フランス革命を準備した進歩主義者の始祖たちつまり啓蒙思想家たちにとってのうるわしき大前提であったペルフェクティビティ(完成可能性)を真底から疑うのでなければ人間・社会についての話が始まらぬとバークは断言した。 この至極当然のはずの断言が進歩主義にあっては大きく揺るがされているのである。 進歩主義とは、新しき変化は晩かれ早かれ良き結果をもたらすと思い込む独断(ドグマ)のことである。 ードグマとは、その原義によれば「良きことのようにみえる」という意味だー。 なぜそんな見え方になるかというと、ほかでもない、人間・社会が変化の流れをつうじて完成へと近づいているというペルフェクティビティの独断にはまったからである。
おのれの不完全性を知悉した人間がどの変化をいかに実現すべきかを慎重に考慮するに当たって頼りにするのが、時効を有するものとしての伝統である。 伝統と照合させなければいかなる変化にも飛び付くまいとしている保守思想は、いきおい、漸進的にしか変化を受容しないことになる。 しかし漸進主義はそれを行うものが不活発であることを意味しない。 まったく逆なのだ。 曲芸師が一本の綱の上で平衡を保とうとするとおびただしい緊張と活力が彼の心身をつらぬいているのとちょうど同じように、保守思想は変化の種類を見極めその度合いを測定する作業に、いわば静かに熱狂しているのだ 中庸(モデレーション)を保つことにおいてのみ人知れず熱狂する、それが保守思想の根本姿勢だといってもよい。 そして綱渡りにおいて曲芸師が手にする一本の平衡棒とちょうど同じような何の変哲もないもの、しかし人間社会の命綱ともなる大切なもの、それが伝統なのである。 そしてバークは伝統の本質は人々の共有(コモン)される普通(コモン)の法体系にありとみたのである。
もう一つ大事なのは、やはり綱渡りにあって曲芸師の視線が向こうの目的地をまっすぐみつめているのとちょうど同じように、漸進主義は理想を凝視することをやめない。 彼岸の理想が何ものであるかを明確に語ることは不可能にしても、それへの示唆は伝統のなかの宗教感覚や道徳感情のうちに含まれている。 「道徳なき権力は専制であり、宗教なき道徳は不安定である」バークがいったのはその意味においてであろう。
バークは「人間の権利(ヒューマン ライト)」なんぞ認めはしなかったが、「イギリスの権利」については存分に認めた。 これをさしてバークにおける国家主義やら民族主義やらを指摘するものが跡を絶たないが、それは莫迦げた物言いというほかはない。 彼のいいたかったのは、どんな権利も国民性を帯びているということについてであった。 権利とは法によって許されている行為の可能性ということにすぎず、そして歴史の産物としての法の体系が国民性と無縁でいることなどできない相談だということである。」
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保守主義の真髄、伝統。
posted by Fukutake at 06:10| 日記