「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
勇気 p276〜
「自分がつね日ごろしたいと思っていても、いろいろな遠慮から出来ないでいることを、だれかほかの人がしたりすると、驚きと羨望の意味をこめて、わたしには勇気がないなどと考えたり、言ったりする。 しかし勇気というのは、そんな時にすぐ言っていい言葉なのか。 わたしたちが日ごろしたいと思っていることには、いろいろな邪悪な欲望があるはずである。 わたしたちが敢えてそれを実行しないのは、遠慮があり、恐れる気持ちがあるからだ。
ひとはこのような恐れを弱さとみて、そのような恐れを乗り越えた行動に、恐れを知らぬ勇しさを見るわけなのだろう。 しかし恐れを知らぬということが、すぐに勇気となるのかどうか。 それは無自覚、センスの欠如、恥知らずなどによる場合が少なくない。 勇気は何ものも恐れないというような、単純なことではないのである。
むかしの人は勇気について、恐れるべきものを恐れ、恐れべからざるものを恐れないことにあると言った。 勇気は恐れなしというだけのことにあるのではなくて、いつも恐れと共にあるものだと言わなければならない。 恐れるいわれのないことを恐れるのは、たしかに臆病であり、卑怯である。 しかし恐れるべきものを恐れるのは、むしろ勇気の一部である。
世間の非難を恐れることも時により正しいこともあれば、また正しくないこともある。 わたしたちは三尺の童子の無邪気な眼をも恐れなければならないことがある。 そして恐るべきことと恐るべからざることとの区別に迷わなければならないこともある。 勇気のもとには正しい認識がなければならない。」
(朝日新聞 「天窓」 一九七一年七月二十四日)
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念仏
「一言芳談」 小西甚一(校注) ちくま学芸文庫 1998年
「ある人のことば。「後世をねがうのなら、世間の暮らしをしてゆくのと同じことだ。 今日はもう暮れてしまうが、しごとは何もしないのに無事はこぶ。 今年もうかうか過ぎてしまうし、一生もぼんやりしているうちに終わりになる。 夜寝るときには、何もせず暮れてしたったことを嘆かなくてはならないし、朝めざめては、いちいち頑ばろうと決心しなくてはいけない。 気がゆるんだときは、生死対立の世界が無常だということを思え。 わるい考えがおこったときは、声をあげて念仏せよ。 鬼神や悪魔に対しては、慈悲の心をもち、助かるようにしてやって、打ち平らげようなどという気をおこしてはならない。 貧乏は成仏の種で、毎日仏道へ進むことになるし、富は生死対立の世界をぐるぐる廻りする原因で、つねに悪い行いを増やしてゆくものだ。」
「願生房のことばに、「むかし明遍上人におあいして、十八道を伝授されたとき、字輪観をお授けねがいたいと頼んだところ、上人の教えに、『学者・智者になりたがってはだめだ。 お釈迦さまが仏になられる前の世でも、学者・智者ではなく、半句の偈のために身を犠牲にし、虎のためにわが身を施すという道心者でおいでになった。 だから、仏法の奥義はなんの役にも立たない。 道心こそ大切なのだ』とあった。 このお話を承ってのち、字輪観を許されたけれど、お習いしな方が良いという考えがわいてきたものだ」とある。」
「ある坊さまが、修行なかまを戒めて言われたこと。 「ものを欲しがりなさってはいかん。 貯めこむのはなんでもないが、捨てるということが一大事なのじゃ。」」
「九州の本覚房が明遍に、「心がもし落ち着かなければ、そのときの念仏は善いとはいえない。 心を静かにしてのち、念仏すべきだ ー と言われておりますが、どう心得たらよろしゅうございましょうか。」とおたずねしたところ、その返事。 「それは秀才のことでしょう。 わたしのような素質のわるい者は、心を静めることがどうしてもできないので、緒の丈夫な数珠を、落ち着こうが落ち着くまいが問題とせず、繰っているだけです。 心が静まったようなとき念仏を ー などと考えていたら、わたしなど、ぜったいに念仏をお唱えできないわけです。」」
「ある人のことば。 「本心から往生したいと思うなら、人のことも念頭におかず、事物にも関わりあわないで、ひたすら念仏を唱えるがよい。 世間のためになりたいなどということは、いちど仏の国に生まれてから、もう一度帰ってきてやればよい。」」
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すべてを捨てて念仏に専念せよ
「ある人のことば。「後世をねがうのなら、世間の暮らしをしてゆくのと同じことだ。 今日はもう暮れてしまうが、しごとは何もしないのに無事はこぶ。 今年もうかうか過ぎてしまうし、一生もぼんやりしているうちに終わりになる。 夜寝るときには、何もせず暮れてしたったことを嘆かなくてはならないし、朝めざめては、いちいち頑ばろうと決心しなくてはいけない。 気がゆるんだときは、生死対立の世界が無常だということを思え。 わるい考えがおこったときは、声をあげて念仏せよ。 鬼神や悪魔に対しては、慈悲の心をもち、助かるようにしてやって、打ち平らげようなどという気をおこしてはならない。 貧乏は成仏の種で、毎日仏道へ進むことになるし、富は生死対立の世界をぐるぐる廻りする原因で、つねに悪い行いを増やしてゆくものだ。」
「願生房のことばに、「むかし明遍上人におあいして、十八道を伝授されたとき、字輪観をお授けねがいたいと頼んだところ、上人の教えに、『学者・智者になりたがってはだめだ。 お釈迦さまが仏になられる前の世でも、学者・智者ではなく、半句の偈のために身を犠牲にし、虎のためにわが身を施すという道心者でおいでになった。 だから、仏法の奥義はなんの役にも立たない。 道心こそ大切なのだ』とあった。 このお話を承ってのち、字輪観を許されたけれど、お習いしな方が良いという考えがわいてきたものだ」とある。」
「ある坊さまが、修行なかまを戒めて言われたこと。 「ものを欲しがりなさってはいかん。 貯めこむのはなんでもないが、捨てるということが一大事なのじゃ。」」
「九州の本覚房が明遍に、「心がもし落ち着かなければ、そのときの念仏は善いとはいえない。 心を静かにしてのち、念仏すべきだ ー と言われておりますが、どう心得たらよろしゅうございましょうか。」とおたずねしたところ、その返事。 「それは秀才のことでしょう。 わたしのような素質のわるい者は、心を静めることがどうしてもできないので、緒の丈夫な数珠を、落ち着こうが落ち着くまいが問題とせず、繰っているだけです。 心が静まったようなとき念仏を ー などと考えていたら、わたしなど、ぜったいに念仏をお唱えできないわけです。」」
「ある人のことば。 「本心から往生したいと思うなら、人のことも念頭におかず、事物にも関わりあわないで、ひたすら念仏を唱えるがよい。 世間のためになりたいなどということは、いちど仏の国に生まれてから、もう一度帰ってきてやればよい。」」
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すべてを捨てて念仏に専念せよ
posted by Fukutake at 16:36| 日記