2022年12月10日

チャリング・クロスの古本屋

「ホンの本音」群ようこ 角川文庫

大人の純愛物語 p22〜

 「古本好きの裕福でない女性の作家とロンドンの古書店の店員との書簡集である『チャリング・クロス街84番地』(中公文庫)を最初に読んだのは、講談社の単行本だった。 今から七、八年前だ。 そのときは、
「わざわざアメリカからイギリスの古書店に、本を二十年間も注文し続けるなんて熱心な人もいるものだ」
 くらいにしか思わなかった。 私自身本は好きだが、古書店で本を買うのは新刊本を買う冊数に比べとても少ない。 よっぽどせっぱつまっていない限り、絶版本で読みたいものを手帳に書いておいて、古書店の前を通りかかったら、中を覗いてみるといった程度である。 しかし彼女の欲しい本を熱心に探してきてくれる、ロンドンの古書店の店員みたいな人がいたら、どんなにいいだろうかと思う。 もともと書店の中を歩いているだけで満足する私としては、洋書はともかくじっと本が着くのをまっているのは、なかなかしんどい。 だからこの本は一度読んだきりで愛読書とはならず、本棚の隅におかれたままだったのである。

 ところが最近、ビデオで『チャリング・クロス街84番地』を見た。 作家をアン・バンクロット、古書店の店員をアンソニー・ホプキンスが演じていたのだが、私はこのビデオを見て涙がじわっと出てしまった。 遠く離れているため、手紙というか注文書だけがお互いを知る手立てである。 目利きの彼女はちょっとでも違う本が届くとガンガン怒りの手紙を書いて文句をいう。 こういう趣味の人だったら、このような本も好きなのではないかとあれこれ考えて出物を勧める彼。 最初は若かった二人も歳をとり、相手に会いたいと思いながらも別れが訪れる。 ビデオを見たあと、本棚からこの本を取り出して読んだ。 前に読んだときは何とも思わなかったのに、胸がじーんとした。

 ビデオを見なければ本を読み返すことはなかっただろう。 これは本を仲介にした大人の純愛物語だったのである。」


昔買おうと思ったことがあった。

posted by Fukutake at 08:43| 日記

自分の死

「一人称の死」ー恐れてもしょうがないー 養老孟司(「芸術新潮」2022年11月号より)

 p62〜

 「2020年の6月末に、心筋梗塞で入院しました。 行けば病気になるぞと、それまではなるべく近寄らないようにしていたのが、体重が大幅に減った上に体調が悪い。 これはおかしいと、自分から東大病院で受診して、そのまま緊急手術に。 術後のICUの部屋で、不思議なことにモニターが2台見えて、とはいってもICUにそんなものないから幻覚ですけど、磨崖仏のような御地蔵さんが5体映っていた。 迎えにきて、でも帰っていきましたよ。 もしかするとまだ近くにうろうろしているかもしれないけどね。

 大病をしてその後どうですか、とよく聞かれるのだけれど、自分の死については考えてもしょうがない。 「一人称の死」は、死んでいたら意識がないから、ないも同然でしょう。 理屈ではなく、実体験から言っていることです。 私にふつうの人と違う点があるとしたら、解剖学者としてたくさんの死体を扱ってきたこと。 かかわってきたご遺体は3000ほどになります。 つまり、きわめて実存的に、死体に触れてきたのです。 のめりこむうち、自分が死体側にいくような感覚を何度も味わいました。 でも、自分が死んだらその感覚自体がなくなってしまう。 目の前にある死体がなくなるようなもので、結局、自分で意識できない死は怖くないし、人間の死亡率は100パーセント、死を怖がってもしようがないと思うに至りました。 「死」は、普通はもっと抽象的にとらえられているけど、「一般的な死」なんてありません。 人が自然と接する機会は年々減り、何かの死骸を見るようなことも、都会ではほとんどなくなりました。 死が日常的にあった鎌倉時代の人の感覚なんて、今の人には理解できないでしょう。 死体が腐敗していく様を段階ごとに描いた仏教画「九相図」なんて、リアルで驚きですよ。

 最近、メタバース推進協議会の代表理事を務めることになりました。 実質的にたいしたことはしていませんが、『唯脳論』で書いた「脳化社会」のひとつの状況とも言えるメタバースについては、興味を持っています。 たとえば、未来に向けて記録を残すツールとしての可能性です。 具体的には、自然がどのようなものだったかを映像や音で記録できます。 環境をぐるりと見渡す360度画像を、音も含めて5年、10年と定点観測で記録していったら、土地の立派なアーカイブになる。 自然そのものよりも情報を残す方が、安上がりでやりやすいかもしれない。

 今現在の記録を、未来の人がメタバースを通して追体験できたら、考えることが変わってきませんかね。 スマホのような、誰もが持つ簡単なツールを通して、失われてしまったものを体験する時代がくるかもしれない。 人生にはいろんなありようがあるから、私は他人のことに口出しなどしたくありません。 ただ、若い人たちには簡単に死んでほしくない。 好きなことをとことんやってみてほしい。 虫なんて見ていたら、あまりにもたくさんいすぎて、時間が一生じゃ足りません。 三生はほしいくらいなんですよ。」

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posted by Fukutake at 08:40| 日記