「新訂 小林秀雄全集 第六巻 − ドストエフスキイの作品−」 新潮社
カラマアゾフの兄弟 より p168〜
「彼(ドストエフスキイ)は、何も彼も體驗から得た、生活で骨までしやぶつた人のする經驗、人生が賈つてくれるものを踏み倒したり、値切ったりしなかつた人のする經驗、自己防衛術を少しも知らず、何事にものめりこめた人のする經驗、さういうものから自分は、何も彼も得たのだ、さう言ふ彼の聲が、書簡の何處からでも聞える。手紙のなかで何が語られてゐようと、彼がはつき言つてゐるのは、實はその事だ、その事だけである。そしてこれが、彼の書簡を、凡そ文學者の書簡のなかで、際立たせてゐるところのものだ。「猫の生活力」は、直かに、生ま生ましい観念の世界に通じてゐるのである。生活上の極意は、文字通り、創作上の極意でもあつたのだ。
上手に語れる經驗なぞは、經驗でもなんでもない。はつきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない。さういふドストエフスキイの言葉を聞く想ひをし乍ら、彼の書簡を讀んで来た者には、既に充分生活に小突き廻された五十歳の彼が、自ら「畢生の仕事」といふ「偉大なる罪人の一生」について、吃り吃り語る際、彼自身どんな想ひであつたかを感得するのは難しくはない筈だ。未来の大小説について、順序なく、くどくどと述べた後、彼は、凡庸な解説者の様に言ふ、「要するに、根本をなす問題は、僕自身が、今日までずつと意識して、又、無意識に苦しんだ来たところ、即ち神の存在といふ問題です」まさに、その通りだつたであらう。
「カラマアゾフの兄弟」について書こうとして、彼に倣つて言ひたい気持ちがする。「根本をなす問題は、彼の作品について書き始めて以来ずつと僕が意識して、又無意識に、見極めようと苦しんて来たところ、即ち、彼の全生活と全作品とを覆ふに足りる彼の思想の絶對性とも言ふべき問題だ」と。僕は、ここで、今迄書いて来た處とは別な何か新しい事を言はうとも思つてゐない。
「カラマアゾフの兄弟」で、作者は少しも新しい問題を扱つてはゐないのだし、又扱おうとも考へなかつたからである。彼は、同じ處に執拗に立ち止つてゐる。「偉大なる罪人に一生」のノオトに描かれた主人公には、嘗て「罪と罰」のノオトでラスコオリニコフの性質について書いた處が、そのまま當て嵌る。「自負う、人間共に對する侮蔑、力への渇望」、少なくとも彼がその本質を充分に發揮するに至つた「罪と罰」以来、彼の創造力は、罪人といふ像の周圍を、飽く事を知らず廻ってゐたのである。サント・ヴィクトアールの山さえあれば、畫材には少しも困らなかつたセザンヌの様に。」
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わが祖国
「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年
政治とは国事である 古代ギリシャ人の国家意識ー
ソクラテスの場合 p14〜
「(現代人である)われわれが『クリトン』において見ることのできるのは、せいぜい国家と個人との間における権利の平等性ということかも知れない。それは国家をも、また個人をも絶対とはせずに、両者を相互的あるいは相対的なものと考えることを、少なくとも一つの可能性として示していると解されるかも知れない。しかし『クリトン』のソクラテスは、そのような相対性をも否定して、国家の絶対性を考え、かの個人的権利の絶対性を考える立場(友人クリトン)と正反対の立場にあることが知られるだろう。
「母よりも父よりも、またその他祖先の全てより祖国は尊いもの、おごそかなもの、聖なるものなのだ。それは神々の間にあっても心ある人びとの間にあっても他にまさって大きな比重をあたえられている。だから、ひとはこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしているときは、父親がそうしているときよりもっとよく機嫌をとって、それに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところは何でもなさなければならないのだ。またもし何かを受けることが指令されたら、静かに何でもこれを受け、打たれることであれ縛られることであれ、また戦争につれて行かれて傷ついたり死んだりするかも知れないことであっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとはこの場合そういうことなのだ。そしてそこから退いても引いてもいけないのであって、持場を放棄することは許されないのだ。そして戦場においても法廷においてもどこにおいても、国家と祖国の命ずることは何でもしなければならないのだ。これに反して、暴力を加えるというようなことは、母に対しても父に対しても神の許したまわぬところであるが、祖国に対してはなおさらのことなのである。(51A-C)」
というのがソクラテスの立場だからである。ここでは個人が国家に仕返しする「正しさ」(権利)などというようなものは考える余地が全くなく、ただ国家の命ずるところを何でも行い、何でも受ける「正しさ」(義務)があるばかりなのである。
これは今日のわれわれの意識からあまりに遠くに離れた考えであると言われるであろう。しかしこれが古代のアテナイ市民の一人であったソクラテスやプラトンの意識であったことは疑う余地のない事実なのである。…
今日われわれはいわゆる「革命の時代」に生きていて、革命とか反体制とかいうことを極めて安易に考え、口にするけれども、これをそのまま昔にもち込むことはできないのである。…今日われわれは、何かより高い進歩の段階にあると自負して、その過去を全面的に否定しようとする。明治の人間は天保時代の士族を嘲笑し、今日の戦後派は戦前派を軽蔑するというわけである。しかしわれわれのその批判の立場は充分確実なものなのかどうか、少なくとも歴史を理解するのに不十分なものであることは確かである。われわれは自制しなければならないのである。」
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過去は誤りか
政治とは国事である 古代ギリシャ人の国家意識ー
ソクラテスの場合 p14〜
「(現代人である)われわれが『クリトン』において見ることのできるのは、せいぜい国家と個人との間における権利の平等性ということかも知れない。それは国家をも、また個人をも絶対とはせずに、両者を相互的あるいは相対的なものと考えることを、少なくとも一つの可能性として示していると解されるかも知れない。しかし『クリトン』のソクラテスは、そのような相対性をも否定して、国家の絶対性を考え、かの個人的権利の絶対性を考える立場(友人クリトン)と正反対の立場にあることが知られるだろう。
「母よりも父よりも、またその他祖先の全てより祖国は尊いもの、おごそかなもの、聖なるものなのだ。それは神々の間にあっても心ある人びとの間にあっても他にまさって大きな比重をあたえられている。だから、ひとはこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしているときは、父親がそうしているときよりもっとよく機嫌をとって、それに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところは何でもなさなければならないのだ。またもし何かを受けることが指令されたら、静かに何でもこれを受け、打たれることであれ縛られることであれ、また戦争につれて行かれて傷ついたり死んだりするかも知れないことであっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとはこの場合そういうことなのだ。そしてそこから退いても引いてもいけないのであって、持場を放棄することは許されないのだ。そして戦場においても法廷においてもどこにおいても、国家と祖国の命ずることは何でもしなければならないのだ。これに反して、暴力を加えるというようなことは、母に対しても父に対しても神の許したまわぬところであるが、祖国に対してはなおさらのことなのである。(51A-C)」
というのがソクラテスの立場だからである。ここでは個人が国家に仕返しする「正しさ」(権利)などというようなものは考える余地が全くなく、ただ国家の命ずるところを何でも行い、何でも受ける「正しさ」(義務)があるばかりなのである。
これは今日のわれわれの意識からあまりに遠くに離れた考えであると言われるであろう。しかしこれが古代のアテナイ市民の一人であったソクラテスやプラトンの意識であったことは疑う余地のない事実なのである。…
今日われわれはいわゆる「革命の時代」に生きていて、革命とか反体制とかいうことを極めて安易に考え、口にするけれども、これをそのまま昔にもち込むことはできないのである。…今日われわれは、何かより高い進歩の段階にあると自負して、その過去を全面的に否定しようとする。明治の人間は天保時代の士族を嘲笑し、今日の戦後派は戦前派を軽蔑するというわけである。しかしわれわれのその批判の立場は充分確実なものなのかどうか、少なくとも歴史を理解するのに不十分なものであることは確かである。われわれは自制しなければならないのである。」
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過去は誤りか
posted by Fukutake at 07:48| 日記