2022年12月04日

自分の責任で、どうぞ。

「世間のドクダミ」 群ようこ ちくま文庫 2009年

自分の尻は自分で… p29〜

 「出会い系サイト、ツーショットダイアルという名前を耳にするようになってずいぶんたつが、私は携帯電話を使わないし、そういうものにアクセスしたこともないので、具体的なシステムはよく知らない。 ただ男女間のトラブルが原因のニュースで、双方の接点が、
「出会い系サイトで知り合って…」
と報じられることがあまりに多いので、たくさん利用者がいるのがわかった。 偏見かもしれないが、
「出会い系サイトやツーショットダイアルにアクセスする人間は、ろくな奴じゃない」
と思っている。 なかにはサイトがきっかけで、よき伴侶を得た人たちもいるんだろうが、それはたまたまいい相手に巡り合い、運が良かったからだ。 多くの場合はそうではないしよからぬ人間が連絡してくると予測がつくのに、それでも連絡してしまうというのは、考え方に問題があるとしか思えない。 悪い奴はほくえ笑みながら、都合のいい獲物がひっかからないかと網を張って待っていて、そこへみすみす引っかかっていくのが、理解できないのである。

 自分だけは大丈夫という、わけのわからない自信があるからなのだろうか。 自分の意思に反した力ずくで犯罪に巻き込まれた人は、お気の毒としかいいようがないが、悪い奴が網を張って待っているところに、ちょっと考えれば危険が回避できるのに、つまらない好奇心で足を踏み入れ、犯罪に巻き込まれた被害者に対しては、気の毒だとは思えない。
「自業自得じゃないのか」
といいたくなるのである。

 出会い系サイトで知り合った異性に、お金を貸してくれと頼まれ、断りきれずに貸したら、相手に逃げられた。 そういう人のために、代わりに貸したお金を回収する仕事があるという。 業者が相手に連絡をとって呼び出し、被害者に少しでも貸したお金が戻るようにするのだ。 世の中の変化に従って、新しい仕事が出てくるのは常だが、私の感想はただひとつ、被害者に対して、
「情けない!」
である。 だいたい、自分が出会い系サイトにアクセスして、そこで自分が選んだ相手と交際して、盗まれたわけではなく自分で財布を開いてお金を渡した。 すべて自分が決めたことである。 別に歩いていたところを捕まえられて、無理矢理付き合わされてそのあげくに金を取られて逃げられたわけではない。 それなのにお金が惜しくて、第三者に依頼してまで返してもらおうとする。 虫がよすぎないだろうか。

 少し考えればどうなるかわかるのに、それでもやってしまって自分が痛い目に遭うのは、「あんたが悪い」、自業自得である。」

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posted by Fukutake at 07:31| 日記

新しい革命原理

「日本的革命の哲学」 山本七平 PHP 昭和五十七年

明恵と北条泰時 p115〜

 「明恵にとって仏法が絶対であり、自分の立場上それがこまるというなら建礼門院には、自分以外のだれでも、「貴敬し思食(おぼしめ)し候はん人を御請じ候て、御受戒あるべし」であり、泰時には「政道の為に難義なる事に候幅はば、即時に愚僧が首をはねらるべし」なのである。 いわば明恵上人にとっては朝廷も幕府も絶対ではなく釈尊だけが絶対なのである。 彼はこの点では、明確に体制の外にいた。 従って明恵上人が何を言おうと、それは朝廷のためでもなければ、幕府のためでもなく、一に釈尊のためであり、それ以外に理由はない。 そしてこれを人々に納得させるだけのものを彼はもっていた。
泰時は次のように答えた。

「泰時朝臣、此の仰せを聞き給ひて、頻りに感涙を流し申し給ひけるは、『子細も知らぬ田舎夷どもの左右(さう)なく参り候ひて、狼藉仕り候ひけること、返す返す不思議に候。 剰(あまつさ)へ尊体をさへ是まで入れ申し候条、其の恐れ少なからず候。 今度若し無為に上洛仕候はば、最先に参上仕候ふ、生死の一大事を歎き申すべき(歎願する)の由、深く心中に挿(さしはさ)み存じながら、此の大事変に障(ささ)へられ候うて、今に其の義なく候ひつるに、不思議に御目に懸り候。 然るべき三宝の御計らひかと存じ候。 其れに付けては如何してか生死をば離れ候ふべき。 また此(かく)の如く物沙汰(裁判・裁定)に聊(いささ)かも私なく理(ことわり)のままに行ひ候はば罪には成るまじきにて候やらん』と云々」

 いわば「進駐軍総司令官」泰時の前には、戦後処理の諸問題が山積している。 そして彼は新しく出来た「小鎌倉」ともGHQとも言うべき六波羅探題として、これを次々に処理しなければならない。 しかし此の新事態には、その処理への基本態度というものさえまだ確立していないのである。 さらに何が正しく何が正しくないのか、その基準さえ明らかでない。 泰時がたずねたことは、一面では、それに通ずることであった。 これに対して明恵上人は次のように答えている。

 「上人答へ給ひけるは、「少しきも理に違ひて振舞ふ人は、後生までもなく今生にやがて滅ぶる習ひなり。 其れは申すに及ばず、縦(たと)ひ正理のままに行ひ給ふとも、分分の罪脱れぬことあるべし。 生死の助けとならんことは思ひも寄らぬ事なり。 山中に嘯(うそぶ)く僧侶すら、猶仏法の深理に叶はざれば、輪廻の苦しみ免れ難し。 況や俗塵の境に心を発(おこ)して、雑念に覇(ほだ)されて仏法と云ふことをも知らずして明かし暮さん人をや。 世に大地獄と云ふ物の現ずるは、只其等の御様成る人の堕ちて煮返らん料にてこそ候へ。 無常の殺鬼(死)は弓箭にも恐れず、刀杖にも憚らざる者なり。 只今とても引きつり奉りて行かん時は、如何がし給ふべき。 実(まこと)生死を免れんと思ひ給はば、暫く何事をも打ち捨てて、先づ仏法と云ふことを信じて、其の法理を能く能く弁(わきま)へて後、せめて正路に政道をも行ひ給はば、自ら宜しきことも候べし』と云々。 泰時大(おおい)に信仰の体に住して、殊に思ひ入れる様なり。 さて御輿用意して召させ奉りて、門のきわまで自ら送り出し奉りけり。 其の後、世聊(いささ)かしづまりて、常に彼の山に参詣して法談申されけり」

 これが両者の邂逅の全文である。」


政権保持の為には天皇権威とか武力とは別の原理・原則が必要。何か。
posted by Fukutake at 07:27| 日記