2022年12月02日

物体(肉体)は思惟しえない

「考えるために」 アラン 仲沢紀雄訳 小沢書店 1990年

第十二の手紙 p67〜

 「…思惟する頭脳は思惟された頭脳と同じものであることはない。誠実な精神の人々さえもはまり込んでいるように見えるこの泥沼からきっぱり抜け出すために、思惟するものは大きくも小さくもなく、近くも遠くもなく、内部でも外部でもなく、また運動しても休止してもいない、と言おう。なぜなら、思惟するものはこれらすべての関係を思惟し、これらすべての関係とその項とを含んでいるのだから。いかなるものも精神の外部にはなく、いかなるものも精神から遠くにはありえない。自分の精神から離れており、自分の精神には近づきがたいとわたしが言いたい場所、それもまたわたしの精神の中にある。身体が認識把握するとしても、身体は自分自身の限界内においてしか認識し把握することはできない。身体が宇宙を認識し把握したら、宇宙は身体の中にあることになってしまおう。

 しかし、生きた身体こそ宇宙の中にあるのだ。いかにして部分が全体を含むことができよう。いかにして全体と諸部分の全体に対する関係とが、あたかも一つ箱の中に納めるように、一つの身体の中に納められようか。いかにしてわたしの頭の周りの宇宙が、承諾しがたいことばの遊びではなしに、わたしの頭の中にあると言えよう。

 以上の省察から、君は、身体の中に、部分のない、不滅の、まことに知恵に富んだ表象の創造者たる魂を隠し込もうとすることがなんの利もないことが分かる。君が魂を結びつけるその場によって、魂はさらに事物の中の一つの事物、もっとはっきり言えば物体的な魂となる。ここではことばはほとんど問題ではない。むしろ、わたしは、宇宙そのものであるような一つの物体が思考すると考える方を好む。いったい、限界も大きさもなく、無形で厳密に統一体であり、その総体において永遠なる物体とはなんだろう。それはもはや一つの物体ではない。だが、この論法は論争に属する。物体がまったく思惟しないということを把握させるほんとうの理由は、すでに述べたように、物体がその充全の意味において把握、定義されてはいず、つねに全体との関係、全体との不可分な関係において思惟され、限定されているということだ。このことから、実体はすべて思惟されているということはあきらかだ。運動の思惟がなくては少しも運動はないのに、どうして運動が思惟しよう。だが、この点についてはもう十分だ。『テアイレトス』を読み返してみたまえ。この書物の中でプラトンが、なかば冗談のように、いかなる感覚にしてもそれが他の感覚と一緒になって複数をなしているのをみずから認識することはないとはっきり言っているのをみいだすだろう。…」

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posted by Fukutake at 09:15| 日記

信長の知恵

「小林秀雄全集 第七巻」− 歴史と文学・無常といふ事− 新潮社版 平成十三年

事變の新しさ p106〜 

 「例へば、桶狭間の戰の當時、これは信長にとつてまさに非常時だつた。信長には、指導理論なぞといふものは一つもなかつたのである。それなら信長は出鱈目だつたか、出鱈目をやつて、運よく成功したのか。今川義元の大軍が、連戰連勝の勢ひで攻め寄せた。その時信長は未だ二十七の若大将で、ささやかな清洲の城主であつた。軍評定の結果、野戰では、とても望みがない、清洲籠城といふ事に衆議一決しました。つまり指導理論といふものが、ここに一つ出来たわけであります。處が、信長獨り斷乎として肯(がえん)じない。籠城なぞ思ひもよらぬ、と言ふ。何故思ひもよらぬか、それならどういふ策があるか。信長はさいうふ事は一言も言はぬ。詰まらぬ雑談なぞを致しまして、夜も更けた。拙者は睡いから寝る事にする、皆んなも退がつて休め、といふ事で、家老達は苦り切つて「人間運の末には、智慧の鏡も曇るとは此節也」と憎まれ口を叩いて落膽したと申します。

 この時、信長の智慧の鏡は、果して曇つてゐたのではありませうか。恐らく、その時彼等が直面してゐる難局の難局たる所以を洞察してゐたのは信長一人たつたのだ。籠城といふ様な解り易い理論に頼つて抜けられる様な事態ではない、彼はさう考えてゐたに相違ありませぬ。信長は未明に起き、具足を付け、立ち乍ら朝食を喫し、法螺を吹かせて、主従六騎、清洲の城を飛び出した。熱田を過ぎる頃、三百餘人の士卒が、彼に追随した。彼は、馬の鞍の前輪と後輪(しづわ)とへ、両手を掛け、横様に乗つて、鼻謡を歌つてゐたと言ふ。彼には確信があつたのです。連戰連敗の第一線に達した時には、三千の部下が從つてゐた。義元は夜を徹して戰ひ、而も勝ち戰さに、ほッと一と息ついてゐた處。桶狭間の合戰は、闇討ちではない。眞ッ晝間、正々堂々たる突撃です。午後の二時頃、夕立の晴れ間を狙つて突撃したのです。義元は、後の方が騒がしいので、走って来る家来に、馬を引けと命じた。その家来が信長の部下の服部小平太であつた、と言ふ。

 信長出陣に際し「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也、一度生を得て、滅せぬ者の有るべきか」といふ「敦盛」を舞つたといふ逸話は有名なもので、諸君も御承知の事と思ひますが、あんまり感心した逸話ではありません。こんな所に、英雄の風格と言つた様なものを見て喜んでゐるから、歴史といふものが解らないのだ。信長といふ人はそんな通俗な人物ではなかつた。舞は舞つたかも知れません、踊りは好きだつたから。併し、後世これが人口に膾炙した逸話にならうとは夢にも思つてゐなかつたらう。この逸話の持つてゐる抹香臭い通俗な思想は、信長には全く縁がなかつたのであります。」

(「文學界」、昭和十五年八月)

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posted by Fukutake at 09:07| 日記