2022年12月25日

整形=お化粧

「世間のドクダミ」 群ようこ ちくま文庫 2009年

プチプチ p53〜

 「美容整形は、昭和二十年代生まれの私の感覚からすると、うしろめたく罪悪感が伴うものだった。 親からもらった顔というのは、すなわち神様が与えてくれた顔であって、部分に少し問題があっても、全体的にはバランスが取れているというのが、みなの言い分だった。 ちっこい目も低い鼻や平たい顔とはバランスがとれている。 だから一部分だけを手直ししても、バランスが崩れてもっとおかしくなるのだというわけである。 私もよく親にそう説得された。 が、今になって思うとうまく騙されちゃていたような気がする。 バランスが崩れるといわれても、そのバランスが保たれているはずの顔が嫌なのだから、どうしようもない。 「神様」という実体のない存在まで登場させて、うまーくいいくるめられ、最後には「外見より心を磨け」といわれたりして、若い娘たちの多くはそんなもんかとしぶしぶ納得して過ごしてきたのである。

 もっと日常的な事でも、やっているのに、やっていないということが多かった。 学校のテストのとき、クラスメートに、
「勉強してきた?」
と聞かれたら、実はやっているのに、
「ううん、やっていない」
と答える。 化粧だって何か特別なことをしているかと聞かれて、めちゃくちゃ、寝る前に塗りたくっているのにもかかわらず、
「ううん、何もやっていない」
としらをきる。 もちろん結婚する予定がない男性と、深い関係になっていても「何もやっていない」といい張る。 とにかく「何もしてない」という方向にもっていく。 やっていても「やってない」人がほとんどだった。 
 
 これは今風にいえばプチ嘘つきである。 いいほうにとれば、やってるといって、相手にプレッシャーをかけるのを避けるという意味合いもあったかもしれない。
 これは自分に対する保険であった。 もしも正直に、勉強したといって、勉強をしていない子よりもテストの成績が悪かったら、みっともないことこの上ない。 プレッシャーが自分にかかる。 だからしらをきっていれば、万事、うまくおさまって、相手にも自分にもプレッシャーがかからないし、偉ぶっていないから嫌われるリスクも少ない。 嘘も方便という処世術だったのだ。

 若い女性のなかには、ものすごい秘密主義の女性もいて、たいした問題でもないのに、やたらと隠しまくるタイプもいるが、少しでも他人から何かいわれないために、鉄壁のガードを造っている。 これはまた別の、精神的な根深いものを抱えているように思える。 が、多くの場合、開けっぴろげすぎるぐらい、開けっぴろげだ。 外見に対しては、「襤褸を着てても心は錦」なんて絶対に通用せず、「『錦は着てても心は襤褸』でも、全然、OK」という声が聞こえてきそうだ。 外見がすべてである。 今では整形も「私はやった!」と堂々としている。 整形した場所まで明かす。 うしろめたさなんて全くないのである。」

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昭和は遠くなりにけり。
 

posted by Fukutake at 07:43| 日記

教育なんて無理!

「幸せになろうなんて思わなくていいのです。」 ヨシタケシンスケ x 養老孟司 (「芸術新潮」2022年11月号より)

 p32〜
 「ヨシタケ 人間、いくつになってもひどい目には遭うもので、誰も悪くないのに、誰も幸せにならないような状況になるのは、もう、相性の悪さとしか言いようがない。

 養老 じっとしているしかありませんね。 じたばたしても無駄だから。 もちろん昔は、若いうちなんて気持ちに余裕がないから違いましたよ。 楽になったのは大学を辞めてから。 勤めていると難しいことがたくさんありますよ。大学を辞めた時も、その後どうしようかなんていっさい考えていませんでした。

ヨシタケ 大学では学生たちに教えなきゃいけないんですよね。

養老 突き詰めると、教育なんて無理なんですよ、どんな問題だって解決するのは本人なんだから。 僕は学生の頃から教育熱心な先生のことを、余計なお世話だと思ってました。 ものごとは結局、自分で学ぶべきで、「自習」してゆくしかない。 作家の高橋秀実さんが『道徳教育、いい人じゃなきゃダメですか?』という本で、日本の小学校の道徳の教科書を考察しているんです。 小学校の教科書には最初の方に「みんなで考えましょう」というのが出てきます。 でも「考える」という行為は、本来は一人でしかできないことなので、みんなで考えるというのは、矛盾しているんです。 自分がどうするかを、最初から他人も含めて考えなきゃいけないなんて、子供だって不思議に思うことです。 僕が大学を辞める時は、もちろん引き止めた人もいたし、困るという人もいたけれど、説得されてもこちらの心には響かなかった。理屈じゃないですから。

ヨシタケ 理詰めでものを考えていくと、世の中、理屈で動いているわけじゃない、というわけですね。

養老 大学の難しいところはそれで、理屈を教えているんだけど、その理屈は実際に行動するときには役に立ちません。 理屈というのは常に後付けですからね。

ヨシタケ 養老先生は子供と一緒に虫採りをしていらっしゃいますよね。

養老 虫採りは、子供を外へ連れ出すための口実です。 外へ行けばいろいろな自然に出会えるでしょう? カタツムリがいたり、トカゲが這っていたり、蝉の声が聞こえてきたり。 もうそれで十分なんです。 あとはそれぞれ好きなことをしろと言って、僕は見張っているだけ。 外で遊ぶ以上に子供に必要なことなんてありません。 それをみんな教室に集めておとなしくしてろと言っても、無理です。 一時期、子供が教室に中でじっとできなくて、学級崩壊だなんて言われていましたけど、子供は外で好きにやらせたらいいんですよ。 
 子供の質問に僕が答えるというNHKの番組に出演したんですが、「どうしたら幸せになれるか」という質問がありました。 子供がそんなことを考えること自体が不幸じゃないですか。 大人が「幸せはこうだ」と定義して当てはめていませんかね。

ヨシタケ 幸せじゃなかったら失敗、とい設定自体が、ヘンなんですよね。

養老 元来、子供は天然自然の存在なんだから、説教したってしょうがない。 そう思った方がいいですよ。 最近しみじみ思いますけど、人間は、自分が努力したおかげで結果を得たと思いたい動物なんです。 たとえばジャガイモは、春に種芋に土をかぶせて置いておけば、耕さなくても秋には育っています。 それなのに人類は一万年もの間、農耕をしてきたから、ジャガイモが勝手に育っちゃいましたというのが気に入らないんです。 命懸けで戦争したのも、結局「やった感」がほしかったわけでしょう。 最初から「頑張らない」と言えばよかったのに、人ばかり相手にしているからそうなっちゃう。 勝手に育っているジャガイモに向かって「俺が育ててやったぞ」と叫んだってしょうがない。  教育問題も同じで、子供はジャガイモだと思えばいいんです。」

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posted by Fukutake at 07:36| 日記

2022年12月24日

現代人の不安

「経済論理学序説」 西部邁 中央公論社 昭和五十八年

 無知の知の喪失 p86〜

 「(ケインズ以降)野蛮に破砕されていったのは、自由主義体制にとっての哲学的基礎であるはずの”無知の知”の立場、つまり人間の知ることがいかに少ないかを知るという知的廉直の立場である。 その挙句、経済学という名の島国にあっては、自分らの駆使している”科学的”知識なるものが技術イデオロギーの侍女なのかもしれぬと考えてみるような人はまずいない。 

 私は懐疑なき心性をもって大衆人の最大の特徴とみなすのだが、そうだとすれば、経済学はすでに大衆人によって占拠さえたわけである。 しかしこの島国の現代は、エコノミック・アニマルの島国ニッポンがそうであるように、幸せでもないし仕合せでもない。 「つまりわれわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかが分からないのである。 つまりあらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。 われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的にはもっと不幸な時代として波間に漂っているのである。 ここから、現代人の心に巣食っているあの優越感と不安感という奇妙な二元性が生まれている」(オルテガ)のである。

 たとえば、近年、”利用しうるすべての情報を効率的に用いて” 合理的期待を形成すれば、人々は市場の均衡価格を平均して正しく予測することだでき、その場合、ケインズ的な裁量政策が無効となることが証明されている。 私はそうかも知れぬとあっさり認めるし、かほどに合理的であると想定してもらえれば市場に参加する大衆もさぞかし優越感にひたれるであろうと察しもする。 しかし、いわゆる合理的期待形成仮説によって取扱われている情報は、経済学において通常そうであるように、人間の意図的に操作する工学的な情報にすぎない。 しかし人間は情報を操作するだけでなく、情報によって操作されるものであるものでもあるのだ。 

 つまり、価値やイデオロギーや伝統や慣習やといった社会的な情報によって、人間は社会のなかに住み処を与えられる。 そして今や、これらの社会的情報の意味内容が技術のがわに決定的に傾き、そこから私たち大衆の不安感がたちこめてくる。 そして、優越感と不安感のせめぎ合いの中から、進歩の幻想をこね上げて、近未来の改革やら革新やら改善やらへむけてひたすらに疾走する、もしくは逃走する、それが私たちの姿ではないのか。 このような心理の総体が私たちの、良くも悪くも、期待というものではないのか。」

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自分たちが得た情報(社会への信頼)に満足する一方で、逆にその情報に惑わされる。

posted by Fukutake at 08:48| 日記