2022年12月27日

「天」は絶対か?

「日本的革命の哲学」 山本七平 PHP 昭和五十七年

民の声は神の声? p20〜

 「『孟子』と『申命記・サムエル記』を読み比べると、『孟子』の方がはるかに楽観的で単純だといえる。 旧約聖書は神政制をとるか王制をとるか、「民の声」にその選択権を認めているものの、民の選択が自動的に正しいとは認めていない。 一方『孟子』には、政治体制の選択という考え方は全くなく、体制は王制に限定されているとはいえ、その中での選択では、人民とはa誤りなきものとしている。 ではなぜそう言えるのか。 孟子は次のように述べる。

 「万章曰く、堯は天下を舜に与う、と。 諸(これ)ありや。 孟子曰く、否、天下は天下を以て人に与うること能わず、と。 然らば即ち舜の天下を有(たも)つや、孰(たれ)かこれを与えし。 曰く、天これを与う、と。 天のこれを与うるは、諄(じゅん)々然として(懇切丁寧に告げて)これを命ずるか。 曰く、否、天言(ものい)わず、行ないと事とを以てこれを示すのみ。 曰く、行ないと事とを以てこれを示すとは、これ如何。 曰く、天子は能く人を天に薦めて天これを受く。 これを民に暴(あら)わして民これを受く。 故に曰く、天言わず、行ないと事とを以て、民にこれを受くとは、如何。 曰く、敢えて問う、これをして祭を主(つかさど)らしめて百神これを享(う)く。是れ天を受くるなり。 これをして事を主らしめて事治り、百姓これに安ず、是れ民これを受くるなり。 天これを与え、人これを与う。 故に、天子は天下を以て人に与うること能わず、と曰えるなり。…」

 この万章という人は相当に突っ込んで質問する人なので、特に解説をする必要はないであろう。 結局、いかに舜が避けても、朝覲する者も、訴訟する者も、謳歌する者も、みな、堯の子の方に行かず舜の方に来てしまった。 となると、孟子のいう「天」とは自動的に「人民の意志」であることが明白になっている。 というのはそれ以外の天の意志の確認は、祭祀の神主をつとめてこれが百神に嘉納されるか否かだけだからである。 従って結論は「天の観るはわが民の視るに自(したが)い、天の聴くはわが民の聴くに自う」(天子は目がないが人民の目によって見、天は耳がないが人民の耳によって聞く)になる。 そうなると「天子は天下を以て人に与うること能わず」「天子は能く人を天に薦むれども、天をしてこれに天下を与えしむること能わず」の「天」を「人民」としてよいこととなり、天子は自分の後継者を人民に推薦することはできるが、それ以上のことはできず、それをうけ入れるか否かは人民の意志ということになるであろう。

 これは「天=誤りなきもの=人民」という考え方が前提となっているはずである。 日本の革新派などにある無条件の「人民信仰」は西欧的というよりもむしろこの伝統に基づくものであろう。 というのは「民の声は神の声」といっても、聖書はそう簡単に自動的にそれを認めているわけではないからである。 民は一面において常に神に反逆するものだからである。」

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posted by Fukutake at 10:19| 日記

2022年12月26日

満洲開拓の少年たち

「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年

満州の印象(抄) p21〜 

 「孫呉に着く。美しい午前である。舞ひ上る粉雪が風の中でキラキラ光る。満蒙開拓青少年義勇孫呉訓練所といふものを、満州拓殖公社の山口君の案内で、と書いてもどうしてもかういちいち面倒臭い名前を附けるのだらう、と訝しいのだが、兎も角今日はそれを見學にいくのである。この種の仕事の名目が、不必要に厳しく難かしいのは、仕事の或る弱點を語つてゐるやうに思はれる。…

 僕が行つたのは十一月上旬であつたが、もう零下二十二度と言はれた。準備の整はないうちに冬は来て了つたのである。棟上げだけ濟ませた家が、空しく並んでゐるのが見られた。出来上がった泥壁に藁葺の宿舎の形こそ大きいが、建築の粗漏な點では、一般満人の農家にも劣るであらう。はじめ少年の手で建てられた天地乾坤造りとかいふ小屋は、夏が近づいてみると濕地の上に建つてゐたことが判明し、移轉に手間どつた上に、未曾有の長雨に遭つて、かういふ始末になつたと聞かされたが、無論この説明は、世人を納得させるに足りないのである。…

 凍つた土間に立ち、露はな藁葺の屋根裏を仰ぎ、まちまちな服装で、鈍い動作で動いている、浮かぬ顔の少年達を眺めただけで、僕は、もうどの様な説明も自分の重い気持ちを動かす事は出来ないのを感じた。僕はどんな質問をしようとも思はなかつた。
 部屋の中央には、細長いペエチカが二つあつて、いい音をして燃えてゐのだが、未だ二重窓も出来ぬ、風通しのいい部屋の氷を溶かすわけには行かない。やがて暗いランプが點り、食事になつた。少量のごまめの煮付けの様なものに、菜っ葉の漬物がついてゐた。僕は不平など書いてゐるのではない。内原の訓練所には少年の榮養研究班なるものがあつたのを知つてゐるから、参考の爲に書いて置くのである。…

 僕は少年達の宿舎に案内された。暗いランプの光では、そこにギッシリ詰つた少年達の顔を、はつきり見分けることは出来なかつた。室内は、本部の部屋よりも暖かい様に思はれたが、煙がひどかつた。少年達の眼が、自分に注がれてゐるのを感じ、彼等が笑ふ様な話がしたいと思つて、胸が塞がつた。僕は、元氣で奮闘して貰ひたいという意味の事を、努めて元氣な聲を出して喋つた。そして一ぱい汗をかいた。…
 特に僕を驚かしたのは、訓練生達の實に潑刺とした表情であつた。それは朝鮮で見た、唯一の美しい顔であつた。同行の張赫宙君と、歸りがけに連れ書小便をしてゐると、彼は突然どうも考えが纏まらぬといふ風な顔で「ああいふ顔は、僕等の知らなかつたものです」と言つた。
 僕はいつの間にか、そんな想ひ出に耽ってゐた。此處にあるのは訓練ではない、單なる缺乏だ。物の缺乏が、精神の訓練を装つてゐるに過ぎない。…

 間もなく僕は、はつきりと理解した。そして一種言ひ様のない同情の念を覺えた。少年達の顔には何等難解なものはなかつたのだ。見る僕の心の方が氣難しかつたに過ぎない。彼等の顔は明けぱなしの子供の顔なのだ。まさしく困難な境遇に置かれた時の子供の心そのままの顔なのだ。…」
(「改造」昭和十四年一月)

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小林秀雄の慟哭
posted by Fukutake at 08:04| 日記

マキ(屋号)+名前

「遠野物語」 柳田國男 新潮文庫

遠野物語拾遺より p177〜

 名前、あだ名
「二四九 以前は家々がそれぞれのマキに属して居た。マキは親族筋合を意味する言葉である。右衛門マキ、兵衛マキ、助マキ、之烝マキなどの別があり、人の名はマキによって称するのが習いであった。佐々木君の家は右衛門の方であった。姓は無くて、代々山口の善右衛門と称し、マキには吉右衛門、作右衛門、孫右衛門、孫左衛門などと謂う家があった。」

「二五〇  人の名を呼ぶ場合には、必ず上に父親の名を加えて呼ぶ。例えば春助という人の子が勘太である時は、息子の方を春助勘太と呼び、小次郎の息子の万蔵の世ならば、小次郎万蔵と呼ぶ。同じようにして、善右衛門久米、吉右衛門鶴松、作右衛門門角、犬松牛、孫之丞権三などがあり、女の方も長九郎はるの、千九郎かつなどと謂った。又女の子に昨今面倒な漢字が用いられるようになったのは、他の地方にも通ずる同様な傾向であろう。」

 「二五一  綽名の類も亦甚だ多い。法螺を言うから某々法螺、片目であるから某々メッコ、跛(びっこ)だから某々ビッコ、テンポであるから某々テンポなど言う例は、此郷では何処へ行っても普通である。新助爺という老人はヤラ節が巧みであった為に、新助ヤラとばかり謂って他の名を呼ばなかった。至って眼が細い女をお菊イタコ、丈が人並み外れて低かったのでチンチク三平、その反対背高であったから勘右衛門長(なが)、また痩せっぽちの男を鉦打鳥に見立てて鉦打長太などと謂う例もあった。盗みをしたためにカギ五郎助、物言いが何時も泣き声なのでケエッコシ三五郎、吃りであるからジッタ三次郎、赭ら顔が細いのでナンバンおこまなど言った例の他に、体の特徴をとって、豆こ藤吉、ケエッペ福治、梟留、大蛇留などとも謂った。歩き様を綽名にしたものには、蟹熊、ビッタ手桶、カジカ太郎、狐おかん、お不動かつなどがあり、おかしかったのは、腕を振って歩く小学校の先生を腕持ち先生、顔の小さな小柄の女先生を瓜こ姫こなどと謂った例のあったことである。」

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瓜子姫子が目に浮かびます。

posted by Fukutake at 08:01| 日記