2022年11月27日

恐怖の二割の人々

「パンチパーマの猫」 群ようこ 文春文庫 2005年

恐怖の二割 p84〜

(どんな職業でもそのうち二割の人は、全然、使いものにならないって聞いたことがある。 とても有能な人も二割。 普通に働ける人が四割、努力すれば普通になるのにやる気がない人が二割なんだって)

 「「大人として、そういう態度をしてもいいんですか」
 といいたくなる相手は、学歴や偏差値とは全く関係がない。 人もうらやむような経歴の人がとんでもないことをしでかす。
 会社の役員に、
「面接のときわからないんですか」
 と聞くと、
「それがわかれば苦労はしないんです。 こんなはずではなかったと後悔してます」
 と肩を落とした。 偏差値の高い大学を出ていれば、人間的に信頼でき、すべてにおいて有能だと、私が勘違いしていたのかもしれない。 しかし時がたつにつれて、それは全く関係ないことで、へたに偏差値の高い大学を出ているほうが、始末が悪いことがわかってきたのだ。 ずいぶん前になるが、知り合いの若い男性が入院したので、彼と顔見知りの若い女性を伴ってお見舞いに行った。 彼女は中学、高校と名門私立の卒業生で、日本で一番難しいといわれている大学を出ていた。 留学経験はないが英語もぺらぺらである。 

 病室に入って彼と話をしていると、彼女は、
「大変でしたねえ。 でも万が一、死んでも大丈夫ですよ 今まで善行を積まれてますから、絶対に天国に行けます」
 といったのである。 彼も私もあっけにとられ、彼女の顔を見ると当人はにこにこしている。 彼を褒めたつもりなのである。 彼は命にかかわるような病気ではなかったが、他にも患者さんがいるというのに、あまりの発言に、呆れ、彼女と同じ偏差値の高い大学出身の両親がどういう躾をしたのだろうかと呆れ返った。 勉強、勉強とそればかりをいって、肝心な礼儀を教えてないのではないのかと疑いたくなったのである。 帰り道、
「どうしてああいうことをいったの」
と聞いたら、
「だって、そうお思いになりませんか? あの方、絶対に天国に行きますよ」
 と平然としていた。 こういう発言は悪意よりもっと悪い。 本人に全く自覚がないからである。 その後も彼女はそこここで顰蹙をかい。会社での仕事もうまくいかなくなってきた。 英語力を高めたいとキャリア留学で海外に行ったらしいが、それを風の噂で聞いた私は、
「英語より日本語の基本的な物のいい方を勉強したほうがいいんじゃないか」と思った。」

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同感です。 
posted by Fukutake at 08:23| 日記

経済は科学か

「経済論理学序説」 西部邁 中央公論社 昭和五十八年

 経済学への懐疑 p17〜

 「たとえば経済学と社会学との学際研究をしようとしても、両者が互いに排他的に分断されているとすれば、両者のあいだの連絡肢がみつからない。 それはあたかも、辞書をもたずに外書を読むようなものであり、あるいは統辞*の構造をもたずに文章を作成するようなものである。 そうであれば、ホモ・エコノミクスとホモ・ソシオロジクスが対面しても、そこにあるのは沈黙である。 または、意味不明の語の堆積である。 私自身が幾度も体験したことなのであるが、学際的な会議の模様はたいがい次の如くである。 「私どもの専門ではその問題をかくかくと説明します」「なるほどなるほど、私どもの専門はそれをしかじかと解釈します」「いやあ、今日はお互い勉強になりましたなあ」という次第である。 本当に相手の理屈を勉強したいのならば、自分の専門の内実が多少とも変わらざるをえないかもしれないのに、そんな緊張感は微塵もみられないのが普通である。 「私どもの専門」は盤石なのであり、その余裕の上になされる余技、それが学際研究だといってたいして過言ではないのである。

 このように安穏にしておれる最大の理由は、すでに指摘したように社会科学にあっては、”事実”なるものの重みが小さい、という点にある。 もし、社会的事実が一個の岩石のように、一本の植物のように、一匹の動物のように頑強に自己を主張しているのならば、個別の社会科学は事故のありうべき歪みについてもと謙虚になるであろう。 事実の重みは、偽の観点、偽の論理、偽の結論を遅かれ早かれ圧し潰すであろう。 事実の一側面を扱う個別科学は、事実の他側面およびそれらを扱う他科学に常に慎重な配慮を払うことによって、一個の全体として存在している事実にたいし、敬意を払わざるをえない。 その敬意のなかから個別の諸科学が互いに連絡をとる回路が生まれてくる。 いわば、事実の重みによって学際研究が支えられているのである。

 ところが社会科学にあっては事実などは無いも同然なのである。 ある事実は解釈の如何で大きくもあれば小さくもある。 赤くもあれば黒くもある。 社会的事実は解釈されるべき対象であるだけでなく、それ自体が人間の解釈の産物である。 自然科学においても事実とは大いにそうしたものなのだろうが、社会科学においてはまったくそうなのである 人々が常套的に繰り返すうちに当然のこととして受入られるに至った解釈、つまり制度化された意味、それが事実なのである。

 とすれば、個別の専門家学者にとっては自らの科学的説明それ自身が事実のなかに組込まれるということが起こりうる。 喩えていえば、ある市場的な事実は、近代経済学者にとっては合理的選択という事実であり、マルクス経済学者にとっては階級的搾取という事実なのである。 学者に限らず、ある固定した範型によって人間・社会を感覚し思考する人々にとっては、その範型こそが事実になる。 それはイデオロギーつまり観念の体系としての事実である。 あるいはミソロジーつまり神話の体系としての事実である。」

統辞* 単語など意味を持つ単位を組み合わせて文を作る文法的規則の総体
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posted by Fukutake at 08:18| 日記