「三島由紀夫の美学講座」 谷川渥 編 ちくま文庫
肉体について p184〜
「日本人は本来肉体の観念を二次的にしか持っていなかった。日本にはヴィーナスもなければアポロもいなかった。日本人の女性の美しさが観音様のような中性的な美しさを離れて、ほんとうの女らしい肉感性を獲得したのは、はるかおくれて江戸の歌麿の海女の図などに初めて見られたものである。
それでは日本人は肉感的な女性を愛さなかったのかというと、そうではなかった。飛鳥朝から平安朝にかけての女性は豊満な肉体をもって人々を魅惑していた。「万葉集」にあらわれる女性の姿が素朴な、あるいは現代の農村女性のようなピチピチとした魅力を想像させることは言うまでもない。その後平安朝時代に女性の肉体が非常に繊弱な、むしろ奇形なものになっていったと思われるのは、文化が爛熟して、女性の人工美が重んじられる点ではフランス十八世紀のロココ時代と同じである。ロココ時代の貴婦人は、極度に胴を詰めた衣装や、極度に衣服の抑制のはなはだしかった風俗から、裸体にすればグロテスク以外の何ものでもなかったと言われている。
しかしフランスと日本の違い、ひいてはヨーロッパと日本の違いは、そもそも肉体というものを肉体それ以上の何ものかの比喩として考えることができるかどうかというところにあった。ギリシャでは、言うまでもなくプラトンの哲学があって、われわれはまず肉体美に魅かれるけれども、その肉体美を通して、さらにより高いイデアに魅かれていく。しかしイデアという究極のものに到達するには肉体の美しさという門を通らなければならないという考えがギリシャ哲学の基本的考えであった。
しかし一方日本では、仏教が現世を否定し、肉体を否定したところから、肉体自体が肉体として評価されないのみならず、肉体が肉体を超えたあるもののあらわれとして評価されることは決してなかった。端的にいえば肉体崇拝がなかったのである。
日本人が美と考えたものは、美貌であり、あるいは心ばえであり、あるいは衣装の美であり、あるいは精神的な美であり、ある場合は「源氏物語」の中の美しい女性のように、闇の中でほのめいてくる香のかおりであった。日本人はムーディーなものに弱いといまでも言われているけれども、輪郭よりも雰囲気によって興奮してきた国民なのである。このように民族性と文化の上で、谷崎潤一郎氏の文学が、肉体崇拝の西欧的な伝統に始まりながら、ついには「蘆刈」のような、古い日本の着物の絹の重みの中に込められた、ほのかな陰影に満ちた女性の美しさへと傾斜していったことは、実に日本人的な変化であり、また日本の伝統へのやむことを得ざる回帰の姿であったとも言えよう。」
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日本女性の肉体美
夢喰うもの 獏
「骨董」 ラフカディオ・ヘルン 平井呈一訳 岩波文庫
夢を啖ふもの p183〜
「短夜や獏の夢食うひまもなし 古句
その動物の名は「獏」といひ、また「しろきなかつかみ」ともいふ。特別の役柄は夢を啖ふことである。獏は物の本にいろいろに書かれてゐる。わたしのもつてゐる或古い書物には、雄の獏には馬の胴に獅子の顔、象の鼻と牙、犀のの額毛に牛の尻尾、それに虎の足をもつてゐると記してある。、雌の獏は雄とは大ぶ形がちがふのださうだが、その違ひははつきり書かれてゐない。…
「最近わたしが獏を見たのは、土用の或大へん蒸暑い晩のことであつた。なんだか妙に苦しくなつてわたしは目がさめたばかりのところであつた。時刻は丑の刻である。そこへ獏が窗からはいつてきてたづねた。「なにか食べるものがありますか。」わたしは喜んで答へた。「ありますよ。…まあ獏さん、わたしの夢をきいてください。なんでも燈(あかり)のたくさんついた、大きな、白い壁の部屋でした。そこへわたしが立つてゐるのですね。ところが、敷物のしいていないそこの牀(ゆか)の上に、わたしの影がうつつていない。それからひよいと見ると、すぐそこの寝臺の上に、わたしの死骸がのつている。いつどうして死んだのか、わたしは覺えがありません。寝臺のそばには六七人の女が腰をかけてゐますが、どれも知つた顔の人はゐません。それがみんな若いともつかず年寄りともつかない、そして揃つて喪服を着てゐる。ははあ、お通夜に来た人たちだなとわたしは思ひました。誰も身動き一つするものも口一つ利くものもありません。あたりがしんとして物音一つしないから、わたしはなんとなく、大ぶこれは夜が更けたなと思ひました。
するとその途端に、わたしはその部屋の空気の中になんとも言ふに言はれない −−まあ、意志の上にのしかかるやうな重苦しさとでも言ふか、とにかくさういう目に見えない、なにか人を麻痺させるやうな力が、しづかにひろがつて来てゐるのに気がつきました。そのうちにお通夜に来てゐた人たちが、お互いにそつと見張り合い出した。恐くなつて来たんですね。するとその中の一人がつと立上つて音も立てず部屋を出て行きました。それから一人立ち二人立ちして、みんな一人づつ影のやうにふわふわ部屋を出て行つてしまつた。結局私とわたしの死骸だけが部屋に残りました。…
獏くらへ、獏くらへ、獏くらへ。食べて下さい。獏さん。この夢食べてください。」「いや、わたしはめでたい夢はたべません。」
そして獏は窗から出て行つた。獏は月の照り渡つた屋根の上をちやうど大きな猫のやうに、棟からから棟へ跳びうつりながら飛んで行つた。」
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夢を食う獏を見た夢。
夢を啖ふもの p183〜
「短夜や獏の夢食うひまもなし 古句
その動物の名は「獏」といひ、また「しろきなかつかみ」ともいふ。特別の役柄は夢を啖ふことである。獏は物の本にいろいろに書かれてゐる。わたしのもつてゐる或古い書物には、雄の獏には馬の胴に獅子の顔、象の鼻と牙、犀のの額毛に牛の尻尾、それに虎の足をもつてゐると記してある。、雌の獏は雄とは大ぶ形がちがふのださうだが、その違ひははつきり書かれてゐない。…
「最近わたしが獏を見たのは、土用の或大へん蒸暑い晩のことであつた。なんだか妙に苦しくなつてわたしは目がさめたばかりのところであつた。時刻は丑の刻である。そこへ獏が窗からはいつてきてたづねた。「なにか食べるものがありますか。」わたしは喜んで答へた。「ありますよ。…まあ獏さん、わたしの夢をきいてください。なんでも燈(あかり)のたくさんついた、大きな、白い壁の部屋でした。そこへわたしが立つてゐるのですね。ところが、敷物のしいていないそこの牀(ゆか)の上に、わたしの影がうつつていない。それからひよいと見ると、すぐそこの寝臺の上に、わたしの死骸がのつている。いつどうして死んだのか、わたしは覺えがありません。寝臺のそばには六七人の女が腰をかけてゐますが、どれも知つた顔の人はゐません。それがみんな若いともつかず年寄りともつかない、そして揃つて喪服を着てゐる。ははあ、お通夜に来た人たちだなとわたしは思ひました。誰も身動き一つするものも口一つ利くものもありません。あたりがしんとして物音一つしないから、わたしはなんとなく、大ぶこれは夜が更けたなと思ひました。
するとその途端に、わたしはその部屋の空気の中になんとも言ふに言はれない −−まあ、意志の上にのしかかるやうな重苦しさとでも言ふか、とにかくさういう目に見えない、なにか人を麻痺させるやうな力が、しづかにひろがつて来てゐるのに気がつきました。そのうちにお通夜に来てゐた人たちが、お互いにそつと見張り合い出した。恐くなつて来たんですね。するとその中の一人がつと立上つて音も立てず部屋を出て行きました。それから一人立ち二人立ちして、みんな一人づつ影のやうにふわふわ部屋を出て行つてしまつた。結局私とわたしの死骸だけが部屋に残りました。…
獏くらへ、獏くらへ、獏くらへ。食べて下さい。獏さん。この夢食べてください。」「いや、わたしはめでたい夢はたべません。」
そして獏は窗から出て行つた。獏は月の照り渡つた屋根の上をちやうど大きな猫のやうに、棟からから棟へ跳びうつりながら飛んで行つた。」
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夢を食う獏を見た夢。
posted by Fukutake at 07:44| 日記