「宮崎市定全集 20 菩薩蛮記」 1992年
西アジア遊記 エジプト王国 ルクソール p141〜
「ナイル川の中流、ルクソール付近はエジプト中王国時代の巨大な遺跡が多く残っているので有名である。 その見物を思い立ち、停車場へ切符を買いに行く。 「案内所(アンフォルマシヨン)」とあるので入って行くと、立派な髭を生やした小学校長のような主任が出て来てフランス語で応対した。 明日の午後までに宿泊券付きの廻遊券を作っておくからというので丁重に頼みこんで引き下がった。 ところが翌日出て行くとまだ切符は出来ておらず、髭の主任が今すぐ取りかかるからといって給仕に何やら言いふくめて出してやる。 それが帰るまで散々待たされた揚句、やっと切符を入手したのはよいが、ルクソールまで長距離電話をかけたとか、手数料だとか、使いに行った給仕への心付だとか何やかやで強(したた)かぼられた。 しかも切符を見ると、なんと停車場の発行ではなくて、クック会社の発行であった。 クックな会社なら宿の近くにあって、私も一、二度金を出しに行ったことのある所だ。 エジプトで外国語のできる男は八の字髭を生やしていてもなかなか油断がならない。
大通りを散歩していると、アラブ人が慣れ慣れしく話しかける。 これはたいてい案内人であって中には「ただいま何時ですか」などと、時間を聞く振りをしてさりげなく話しこんでから、最後にどこへ案内致しましょうなどと、しつこく付き纏って来るのがある。 釣れますか、などと文王そばへより。 生存競争の劇しい所ではいろいろな戦術が発達するものである。
十月二十五日夜七時五十分、カイロ発の汽車でルクソールに向かう。 エジプトという国は地図の上で見ると大体四角であるが、本当はナイル河の沿岸にしか人が住んでいないので、実際は帯をたらしたような細長い国である。 鰻の寝床といったらなおよく当てはまる。 そこで鉄道がナイル河に沿うて南北につき抜けているから、鉄道の沿線を見ただけで大体エジプトを一巡したことにもなるのである。 ナイル河はこれも世界地図で見ると真直ぐなように思えるが、実地にその沿岸を汽車に乗って見ると、相当に曲がりくねった河であった。 夜の間は方向がさっぱり分からないが、夜があけて日が照り出し、日光が車中に差しこむようになると、方向の変わるのが直ちに身をもって感ぜられるのである。」
(昭和十二年)
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2022年11月21日
1937年のエジプト、ルクソール
posted by Fukutake at 08:15| 日記
支那兵は盗賊
「綺堂随筆 江戸っ子の身の上」 岡本綺堂 河出文庫 2003年
支那兵 p282〜
「今度は少しく支那の兵士について語りたい。
支那の兵隊も苦力とともに甚だ評判の悪いものである。 支那兵は怯懦*である、曰く何、曰く何、一つとして良いことは無いように云われている。 而も彼等の無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪い為であって、彼等の罪ではない。
現在の支那のような、軍隊組織や制度の下にあっては、如何なる兵でも恐らく勇敢には戦えまいと思う。 個人としての支那兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。 新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるかは知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教え、よく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。 由来、文を重んずるは支那の国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に、武を嫌い、武を憎むように慣らされている。 支那の人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢不当兵」とは昔から云うことであるが、苟も兵と名が附けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、殆ど盗賊類似のように考えられている。 そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
私は遼陽城外の劉という家に二十日余り滞在していたことがある。 農であるが、先ずここらでは相当の大家であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。 そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。 私達のそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。 すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。 早く云えば、継子が他人を慕うというような風である。
これには何か仔細があるかと思って、ある時他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。 彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那で世を送られる身の上であるが、若気の誤りー と、他の雇人は云った。ー 十五、六歳の頃から棒を習った。 それまではまだ好いのであるが、それが更に進んで兵となって、奉天歩隊に編入された。 所詮、両親も兄も許す筈がないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
それから数年の軍隊生活を送ったのち、彼は兵に倦きたか、故郷が恋しくなったか、実家に帰って来たが、実家では入れなかった。 それでも土地の二、三人が彼を憫れんで、彼のために実家や親族に嘆願して、両親や兄の下に復帰することを許された。先ずは勘当が赦されたという形である。 もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。 彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十になるまではその儘であろうという。」
怯懦* 臆病で気が弱いこと
(「支那兵の話」 文藝春秋(昭和八年一月)/『猫やなぎ』収録)
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支那の兵を蔑する風潮はかつての動乱時の兵の想像を絶する殺戮、暴虐の記憶によるものか。
支那兵 p282〜
「今度は少しく支那の兵士について語りたい。
支那の兵隊も苦力とともに甚だ評判の悪いものである。 支那兵は怯懦*である、曰く何、曰く何、一つとして良いことは無いように云われている。 而も彼等の無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪い為であって、彼等の罪ではない。
現在の支那のような、軍隊組織や制度の下にあっては、如何なる兵でも恐らく勇敢には戦えまいと思う。 個人としての支那兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。 新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるかは知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教え、よく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。 由来、文を重んずるは支那の国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に、武を嫌い、武を憎むように慣らされている。 支那の人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢不当兵」とは昔から云うことであるが、苟も兵と名が附けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、殆ど盗賊類似のように考えられている。 そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
私は遼陽城外の劉という家に二十日余り滞在していたことがある。 農であるが、先ずここらでは相当の大家であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。 そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。 私達のそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。 すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。 早く云えば、継子が他人を慕うというような風である。
これには何か仔細があるかと思って、ある時他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。 彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那で世を送られる身の上であるが、若気の誤りー と、他の雇人は云った。ー 十五、六歳の頃から棒を習った。 それまではまだ好いのであるが、それが更に進んで兵となって、奉天歩隊に編入された。 所詮、両親も兄も許す筈がないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
それから数年の軍隊生活を送ったのち、彼は兵に倦きたか、故郷が恋しくなったか、実家に帰って来たが、実家では入れなかった。 それでも土地の二、三人が彼を憫れんで、彼のために実家や親族に嘆願して、両親や兄の下に復帰することを許された。先ずは勘当が赦されたという形である。 もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。 彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十になるまではその儘であろうという。」
怯懦* 臆病で気が弱いこと
(「支那兵の話」 文藝春秋(昭和八年一月)/『猫やなぎ』収録)
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支那の兵を蔑する風潮はかつての動乱時の兵の想像を絶する殺戮、暴虐の記憶によるものか。
posted by Fukutake at 08:10| 日記