「吉井勇歌集」 吉井勇自選 岩波文庫
祇園歌集より p32〜
「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる
伽羅の香がむせぶばかりに匂ひ来る祇園の街のゆきずりもよし
香煎の匂ひしずかにただよへる祇園はかなしひとり歩めば
にぎやかに都踊りの幕下りしのちの寂しさ誰にかたらむ
加茂川の水をながめてもの思ふさすらひびとにものな問ひそね
夜もすがら何を恨むや歎けるや加茂川の水かなしげに泣く
仁丹の廣告も見ゆ橋も見ゆああまぼろしに舞姫も見ゆ
狼藉と祇園の秋を吹きみだす比叡おろしよ愛宕おろしよ
叱られてかなしきときは圓山に泣きにゆくなりをさな舞姫
舞姫に笑はれながら酒を飲む丹波の客も床(ゆか)にすずみぬ
南座の幟の音がこころよくわが枕までひびき来る時
先斗町の遊びの家の灯のうつる水なつかしや君とながむる
島原の角屋の塵は懐かしや元禄の塵享保の塵
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芸者
「幕末明治 女百話(上)」 篠田鉱造 著 1997年
女太閤 春本の秀吉(ひできち) p201〜
「赤坂の芸妓(げいしゃ)について、お話ししますと、昔を割ったら軍人芸妓で、軍人のお客が多く、新橋、柳橋の意気筋から見たら、山の手の溜池芸妓で、一段低(さが)っていたんです。下町芸妓から見たら山の手芸妓は、溝渠(どぶ)泥臭(どろくさ)いもののように言われていたもんですが、ソレが今日のように、立派になって押しも押されもしない、赤坂芸妓にでっちあげるには、春本林家の二軒が、張合ってもいましたが、赤坂芸妓に箔をつけてくれたんです。春本の秀吉さんと、林家のお鉄さんが、美(よ)い玉を買込んで、一時百人から御神燈の下に抱え込んで、全盛を極めたもんです。アノ時分の全盛は、御覧に入れたかったもんです。どうしてあんなに玉を揃えたもんか、その内にも『万竜』なんて、お嬢さん芸妓を仕込んで、世間をあっといわしたもんです。
その他玉揃い腕揃いですから、各自(めいめい)いいお客を喰(くわ)え込んで、ドシドシ待合を出す、退(ひか)される、そのたんびに、秀吉さんの懐中(ふところ)は、銀行になって、金貨が唸るという、頓頓拍子に、身代がが肥(ふ)えてしまって、好きな真似が出来ちゃったんです。
女でこそあれ、ああなったら、『女太閤』といわれるのは、無理もないんです。あれが男子なら、何拾冊という伝記が、文学士とか、新聞記者にかかれて、生れはどこ、幼にして穎敏なんて、御大相なことになるんでしょうが、女の悲しさ、『秀吉さんはえらい』といったくらいで、忘れられてしまって、いろいろな話もありますが、一代の出世までには、随分苦労もしていますから、古いことを知っている人は、モーありますまい。一体秀吉さんは、まだ赤坂が前申した全盛に向わず、山の手の不見転芸妓といわれた頃には、やっぱり御多分に洩れない、不見転の働きもので、誰でもお構いなしに、お銭(あし)にさえなれば、身を張るといった風ですから、芸妓仲間から『返り車』と綽名(あだな)された妓(ひと)なんです。『旦那お安く参りましょう、返り人車(くるま)ですから』とは、明治の人力車夫が、客をすすめるのに、いつも言う言葉だったんです。
でも稼ぐに追付く貧乏なしで、体を張って、丁半を叩いても、芸妓は外れっこがないんですから、メキメキ懐中合(ふところあい)はよかったんです。ソコへ持って来て、性来が利巧なんですから、溜め込んで忽ち芸妓屋もよくすれば、名前も売れて、お尻のあったまる隙がないくらい、お座敷がかかったんです。この時分が、智恵のある限り、智恵を働かし、根をつかったんでしょう。お客の間にも、随分と種類があって、秀吉さん自身だって、世が春本をああまで持上げてくれようなんかと、先の見越しがついていたんじゃないんで、あのお客、このお客と言わば喰い散らして、アラにされた人も沢山あるし、身代を煙にした客もありましょう、ソレは芸妓なんかに嵌ると、言うだけ野暮で、薄情で、人情なしだと、呪っているのもありましょうが、嵌る自身を考えないんです。恨むなら御自身の思慮(かんがえ)の足りないのを怨めばよいんです。」
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嵌る自分を考えない男が悪い
女太閤 春本の秀吉(ひできち) p201〜
「赤坂の芸妓(げいしゃ)について、お話ししますと、昔を割ったら軍人芸妓で、軍人のお客が多く、新橋、柳橋の意気筋から見たら、山の手の溜池芸妓で、一段低(さが)っていたんです。下町芸妓から見たら山の手芸妓は、溝渠(どぶ)泥臭(どろくさ)いもののように言われていたもんですが、ソレが今日のように、立派になって押しも押されもしない、赤坂芸妓にでっちあげるには、春本林家の二軒が、張合ってもいましたが、赤坂芸妓に箔をつけてくれたんです。春本の秀吉さんと、林家のお鉄さんが、美(よ)い玉を買込んで、一時百人から御神燈の下に抱え込んで、全盛を極めたもんです。アノ時分の全盛は、御覧に入れたかったもんです。どうしてあんなに玉を揃えたもんか、その内にも『万竜』なんて、お嬢さん芸妓を仕込んで、世間をあっといわしたもんです。
その他玉揃い腕揃いですから、各自(めいめい)いいお客を喰(くわ)え込んで、ドシドシ待合を出す、退(ひか)される、そのたんびに、秀吉さんの懐中(ふところ)は、銀行になって、金貨が唸るという、頓頓拍子に、身代がが肥(ふ)えてしまって、好きな真似が出来ちゃったんです。
女でこそあれ、ああなったら、『女太閤』といわれるのは、無理もないんです。あれが男子なら、何拾冊という伝記が、文学士とか、新聞記者にかかれて、生れはどこ、幼にして穎敏なんて、御大相なことになるんでしょうが、女の悲しさ、『秀吉さんはえらい』といったくらいで、忘れられてしまって、いろいろな話もありますが、一代の出世までには、随分苦労もしていますから、古いことを知っている人は、モーありますまい。一体秀吉さんは、まだ赤坂が前申した全盛に向わず、山の手の不見転芸妓といわれた頃には、やっぱり御多分に洩れない、不見転の働きもので、誰でもお構いなしに、お銭(あし)にさえなれば、身を張るといった風ですから、芸妓仲間から『返り車』と綽名(あだな)された妓(ひと)なんです。『旦那お安く参りましょう、返り人車(くるま)ですから』とは、明治の人力車夫が、客をすすめるのに、いつも言う言葉だったんです。
でも稼ぐに追付く貧乏なしで、体を張って、丁半を叩いても、芸妓は外れっこがないんですから、メキメキ懐中合(ふところあい)はよかったんです。ソコへ持って来て、性来が利巧なんですから、溜め込んで忽ち芸妓屋もよくすれば、名前も売れて、お尻のあったまる隙がないくらい、お座敷がかかったんです。この時分が、智恵のある限り、智恵を働かし、根をつかったんでしょう。お客の間にも、随分と種類があって、秀吉さん自身だって、世が春本をああまで持上げてくれようなんかと、先の見越しがついていたんじゃないんで、あのお客、このお客と言わば喰い散らして、アラにされた人も沢山あるし、身代を煙にした客もありましょう、ソレは芸妓なんかに嵌ると、言うだけ野暮で、薄情で、人情なしだと、呪っているのもありましょうが、嵌る自身を考えないんです。恨むなら御自身の思慮(かんがえ)の足りないのを怨めばよいんです。」
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嵌る自分を考えない男が悪い
posted by Fukutake at 07:43| 日記