2022年11月17日

金券主義の成れの果て

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年

三つの人間的条件 p88〜

 「経済というものが歴史を動かす大きなちからになっていることは、今日では公式論として一般に認められている。 あるいは認められすぎていて、かえって歴史の真実を見あやまらせることにさえなっている。 それはたしかに歴史を見るための一つの鍵をあたえるものとして、冷静な歴史認識に寄与するところの多いものである。 しかしこの歴史事実を非難したり呪詛したりすることになると、これは科学とは無関係の感情論になってしまう。 時によると経済的要因の強調が、このような感情論と一つになって、歴史認識のさまたげになることも少なくない。

 経済の支配的な力、もっと具体的に言えば金銭の支配に対する反撥や非難は、何も今に始まったことではない。 古代ギリシアの例で言えば、紀元前六世紀の詩人テオグニスは、人のよしあしが金銭の多少によってきまる世の傾向を、きびしく非難する詩句をたくさん残している。 それは貴族的な感情の発露と見られるだろう。 先の歴史家の指摘にも見られるように、一面においては人間は私利私欲のかたまりのようなものであるが、他面またこれとは独立に名誉とか名前とかを重じ、このためには時に生命を捨てることさえある。 そして貴族社会というのは、このような名誉が価値体系の首位を占める社会なのである。

 わが国においてもむかしから宮廷が名誉体系の中心に位していたのであって、後に武士が実力によって天下を支配するようになっても、やはりこのような名前や名誉が別の支配的な力をもっていたと言うことができるだろう。 そして明治維新によって、そのような封建的な価値体系はこわされてしまったけれど、また別の名誉体系があらたに皇室を中心として組織され、華族や官僚、軍人などがそれぞれ名誉ある地位を占め、経済的にはめぐまれない学者や教育家たちも、位だけは比較的高いところへおかれていたようである。 そして金と名は二元的な秩序を形づくっていたのではないか。

 しかし敗戦とともに、このような名誉の体系はほとんど破壊され、いくらか残っているものも影のうすいものにされてしまった。 いわゆる民主化ということである。 その結果は経済力、あるいは金力だけが一元的に価値体系を構成することになったとも見られるだろう。 ある意味ではこれは進歩とも、近代化とも言われるだろう。 純粋なブルジョア社会が出来上がることになるからだ。 いわゆる金権政治はその一つの帰結のようなものであって、今さら非難しても始まらないとも言われるだろう。 しかしその非難の動機は何なのだろうか。 それは今日では昔ながらの貴族的感情が主になってなされているとも思えないのである。 むしろ経済や私利私欲を第一義とする点においては、ブルジョア社会の原理の上にたっての非難ではないかとも疑われる。 つまり非難する者も非難される者も同穴のむじなみたいなものである。

 露骨に言えば、自分が損したとか、利益をつかみそこねたとか、あるいはお前のおかげでおれたちは貧乏しているとかいう感情にもとづくものではないか。 いわゆる民主化の方向は、かつての名誉の体系を崩壊させたと同じように、金銭の支配をも終息させるかも知れない。 しかしそれに代わる支配の体系が、恐怖だけによるものだとしたら、どういうことになるだろうか。

 わたしたちは人間の行動を支配する三つのものについて、冷静な認識をもつとともに、しかしそれらのどれをも独走させないために、三つの自然的条件に支配されっぱなしではなくて、むしろこれを自由に支配することのできる、ちょっと少しばかりそれらの外に出たところから人間を見る目をもたなくてはならないのではないか。」

(巻頭言 昭和四十九年十月)

今後金権が民主化の名の下にその支配力を失い、ロシアや中国革命のように、一部のスーパーエリートによる恐怖だけの支配に代わるかも。

posted by Fukutake at 08:00| 日記

産業革命 世界大闘争時代の幕開け

「宮崎市定全集 20 菩薩蛮記」 1992年


ヨーロッパとアジア p201〜

 「イスパニア、ポルトガル両国、続いて英、仏、蘭を主動力とする西欧帝国主義の魔手は最初に強敵トルコを敬遠し、最も抵抗の薄弱なる地点を選んで東洋に伸び、喜望峰迂回路によってインド、南洋を蚕食し、清朝末期のシナ帝国をも脅迫して、これを半植民地化する機会を覘(うかが)いはじめた。 同時に東欧に勃興したるはロシアである。 ロシアはトルコ、蒙古の抵抗を憚って、極北無人のシベリアを通過して東洋に到達した。 ロシアが最初に選びたるシベリア横断路は、カザン、トボルスク、トムスク、イェニセイスク、ヤクツクを経て、オホーツクに達するもので、現今のシベリア鉄道路線よりも、ひとまわり北方を走っていたのである。

 インド、南洋の富は著しく西欧を富ましめた。 なかんずく大都市の商工業者を潤した。 ここに西欧における市民階級(ブルジョワジー)の勢力勃興を見るのである。 英国においてはこれが代弁者としてクロムエルを見出した。 都市商工業の勢力はついに、最後の封建制度の残滓たる専制君主を圧倒抹殺し去った。 その後英国において名目上は王朝の復興を見たるも、そは実は決して英国の支配者としてではない。 英国の支配者はロンドン市であって、国王は単に諸外国との摩擦を避けんがために、外務大臣として推戴さられたるに過ぎない。 

 英国と相並んで活躍せるオランダの東洋貿易の発展は、またその後方地帯(ヒンターランド)たるフランスに甚大な影響を与えないでは措かなかった。 パリ市の発達はすなわちフランス市民階級の勃興を物語るものであり、パリの新興市民階級と、ヴェルサイユにおけるスペイン婦系家族ブルボン王朝の大陸的封建勢力とは、まさに好個の対照を成していた。この両者の対立の爆発せしものがフランス大革命である。 

 そしてナポレオン時代の市民階級の勢力は、既にクロムエル時代におけるそれの比ではなかった。 彼等は既に産業革命を経験し、機械力の恐るべきこと、伝統的封建君主の無力なることに対して絶大の自信を抱いていた。 フランスはナポレオンの失脚により、諸外国より旧ブルボン王朝を復活を強制されながら、仏国民は決してかかる外務大臣を歓迎しなかった。 ここに最も市民的(ブルジョア)なる第二共和国の出現するけいきが潜んでいた。

 英国及びフランスにおける二大政治革命の裏面には隠れたるアジアの働きが与って力ありしことを忘れてはいけない。 それはすなわちアジアの物資である。 ただしアジアの物資も人の手を籍(かり)らねば生産されない。 西欧の革命はヨーロッパ人の血を流して達成されたが、その陰において膏血をしぼられた者は実に東洋の民衆であったのだ。

 西欧における政治革命と相並んで産業革命こそは、ヨーロッパの世界覇権を確立せしむる決定的要素となった。 西欧の侵略に対し、辛うじて自ら支持し來った、東亜の清朝、西亜のトルコ二大国も幾度かの反抗の後、ついには戟(げき、ほこ)を投じて敵の軍門に投降せざるを得なくなったのである。」

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ルネサンスより奔り出た、合理主義と金権主義。中層階級の功利主義が相まって産業革命を引き起こした。
posted by Fukutake at 07:57| 日記