2022年11月16日

お前は神か

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年

国の責任 p199〜

 「「神義論」というものがある。 もしもこの世に神があり、世界は神によってつくられ、神によって見られているのだとしたら、われわれ人間のこのいわれなき不幸はどうしたのか。 神の摂理とか、神の正義はどこにあるのかと、人びとが疑い迷うのに対して、言わば神のためのアポロジーを展開するのが、この神義論の役割なのである。 それは一面において、神に責任なしとする免責論のようなものとも言えるだろう。 昔ギリシアの哲学者は、神の世界創成の神話を語るにあたって、この世に悪に神は責任はないことを、一つの宣言の形で打ち出している。 悪人栄えて善人亡び、罪のない幼児が病苦のはてに死んでいくというような現実を見るとき、これはなかなか深刻な問題となるだろう。 ヘーゲルの壮大な歴史哲学は、彼自身が認めているように、歴史論の形による神義論なのである。

 ところが今日のわが国では、いわゆる万能の神も引き受けないような責任を国や政府におしつけようとする考えが、自明のことでもなるかのように、いわゆる世論の支えになったりしている。 戦争直後に超国家主義の論理と心理というようなことが、いわゆる進歩派の政治学者によってやかましく言われたことがあったが、しかしいま神も負うことをしないような責任を国に押し付けようとするのは、どのような心理と論理によるのだろうか。 これもまた国の神格化の一種であり、いわゆる超国家主義の亡霊みたいなものが、依然としてわれわれの心に住み着いているのではないか。 神人としての昔の君主は、一切天変地異に対しても責任を問われたが、今日では地震や台風などによって被害が出たりすると、これを国の責任にして、賠償金を取るための訴訟が起こされたりする。 今日われわれは国に何でもしてもらうつもりで、少しでも不足があると、その責任を追究しようとしている。 国の責任は無限であるというわけである。

 しかも他方では国の力を弱くし、小さくすることを、民主主義の名において要求しているのである。 無限の力をもつ神さえも、その責任は有限であると考えられているのに、これは何としても奇妙なことと言わなければならない。

 そもそも国家や政府は何のためにあるのか。 われわれにサービスするためにあるという考えが、今日のわれわれには一般化されていると言えるかもしれない。 われわれが国の主権者だというわけである。 しかし主権者とは何なのか。 多くの人たちはこれを封建時代の殿様というようなイメージで考えているのではないか。 ある革新知事が料亭へ行って、知事と言えば昔の殿様と同じことだというので、女将に靴のひもを結ばせようとし、しぶる相手を側近の者が面罵したという、たぶんうそかもしれない噂話を聞いたことがある。 われわれも主権者だなどと言われると、急にそういう殿様になった気がするのではないか。 料理をもて酒を出せ女を呼べなどと、好き勝手のできる身分というわけである。 もし主権者というのがそういうものだとすれば、それは酒色などのサービスによってどうにでも左右される昔の馬鹿殿様になる危険がきわめて大であると言わなければならない。 結構ずくめの選挙向け宣伝など聞いていると、特にその感が深い。」

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特に革新系の人々にその手の話が多い。なぜ?それはね…
posted by Fukutake at 08:39| 日記

昭和は遠くなりにけり

「世間のドクダミ」 群ようこ ちくま文庫 2009年

感覚の違い p178〜

 「私も普段原稿を書いていて、漢字の変換を間違えたり、文章がおかしくなっているときも多い。 言葉の使い方を間違えていることもある。 そのたびに校正者や編輯者には世話になっているし、彼らに見てもらえるから、少し気楽という部分も多かった。 ところが最近はそうはいかなくなってきた。 私が若い頃は校正者や編輯者が年上だったので、間違いをたくさん指摘してもらった。 

 ところが私も五十歳になると、仕事をする相手は若い人ばかりだ。 それで困るのは、もちろんみんながそうではないが、辞書も引かずに自分が思い違いをしているのにもかかわらず、こちらの原稿を間違いだと平気でチェックしてくることだ。 彼らは辞書を引けばわかることであっても、そうしない。 自分の頭の中に入っている字句には間違いはないと思っているらしく、自信満々で正しい表記の原稿をチェックしてくるのだ。 その堂々とした態度には驚くべきものがある。 また、最近の若い校正者は、「インターネットによると」、という注釈をつけてくる。 商品名の場合、私は現物を見て原稿を書いているのに、彼らはそれを調べる手段はインターネットなのである。 いくらその物と関係しているホームページであっても、誤字はありうる。 それを全く疑わずに、インターネットが正しさの基準になっているのは、本をつくる立場としてもまずいし、人としても問題があるのでではないだろうか。

 若い人との感覚の差を感じては、将来に不安を持つばかりだ。 昨日、友だちが、
「大変なことが起こりました」
というので話を聞くと、丸一日、外での撮影の仕事があった。 みなへとへとになっていて、食事の時間を唯一の楽しみにしていた。 お弁当が配られ蓋を開けてみたら、何とご飯と焼きそばしか入っていない。 つまり焼きそばをおかずに御飯を食べる、ものすごい弁当だったのである。 食事担当の若い男性にとっては、それが食事として成り立つという感覚なのだ。 

 問題なのは、彼らには悪意がないということだ。 だからこちらの怒りのやり場がない。 感覚の違いはその人個人の育てられ方にもよるし、いくらいってもわからないのではないか。 しかしそういうことがたて続けにあると、早く隠居したくなる。 そのためにはまだ彼らを相手に働かなくてはならず、泥沼の現実を思い知らされるのである。」

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posted by Fukutake at 08:35| 日記