2022年11月15日

核武装せよ

「核武装論ー当たり前の話をしようではないかー」 西部邁 講談社現代新書 2007年

独立自衛核への道 p191〜

 「私は、その方面の専門人ではないのですが、「量は質に転じる」という説には頷けるところがあると考えています。 ごく最近、アメリカで「ニュークリア・シュプレマシー」(核優越)という意見ーというよりも報告ーが発表されています。
 たしかに「核格差」とでもいうべきものが量において百倍、質も加味すれば数百倍ということになれば、「核優越」という観念が成立するのかもしれません。 とくに「核」は、国民のみならず軍隊組織における、集団心理と強く関わっています。 アメリカの核優越がここまで来てしまうと、アメリカの「核の傘」の破れ目もそう大きくはないといった予測にも十分な考慮を払うべきなのでしょう。

 しかし、仮にそうだとしての話ですが、国家の外交上の発言力が「核」の有無に大きく依存しているという事実までもが否定されるわけではありません。 「核」はたとえ少量でも他国への脅威であり、そして「核に対抗できるのは核だけである」という事実はどこまでも残るのです。 さらにいうと、国家の発言力どころか独立性までもが、「核」の有無によって左右されます。 とくに近隣に核保有国がいくつかある場合、どこか特定の核保有国に従属するのでなければ国家の「安全と生存」を保ちえない、ということになります。

 私は、「核を持てば自主独立できる」と楽観しているのではありません。 場合によってはー核優越の影響が強いという状況下ではー少々の「核」を保有しても、日本国家の自主独立は難しいのかもしれません。 逆に、アメリカや中国が国内の混乱を収拾するのに精一杯という状況にあっては、「防衛費の倍増と徴兵制の実施」といったくらいのことで、日本国家の自主独立ぶりを国内外に宣言できるのかもしれません。 私の主張したいのは次の三つのようなごく簡単なことです。 つまり、自尊・自立あるいは自主・独立は国家の最終的もしくは最高位の目標であること、その目標を達成するのに「核」が有力な手段であること、それゆえ核武装の在り方について正々堂々と議論すればよい、といっているのです。 ツキディデスもマキャヴェリもホッブスも、自分がかかわる国家の「安全と生存」のために意を用いましたが、それはあくまで古代アテネ、近世フィレンツエそして近代(初頭)イギリスの「自主と独立」を守るための手立てであった、ということを忘れてはならないのです。

 もっと具体的にいえば、「非核三原則」は(現憲法第九条第二項と同じく)反故もしくは死文とみなせ、そして「核の傘」は(一定のリアリティを伴ってはいるものの)アメリカの懐に抱かれてまどろむのを習わしとしてきた列島人の夢想の産物と認めよ、ということです。 そうしないような防衛論は、それこそ「核」アレルギーに見舞われざるをえません。
 国民が自尊心と自立心に覚醒するわけがないという見方もありましょう。 しかしそれでかまわないというのは、「国の民」としては、一種の自殺願望に当たるといってよいのではないでしょうか。」

-----
まず九條破棄。

posted by Fukutake at 08:55| 日記

幸せの習慣 我慢

「アラン人生語録」 井沢義雄・杉本秀太郎訳 彌生選書

幸福の秘訣 p130〜

 「子供たちには、幸福の秘訣をしっかり教えておくべきであろう。不幸があなたの頭上にいきなり落ちかかってきたとき幸福でいる秘訣ではない。…まわりの情況もなんとかがまんでき、生活の辛苦といっても、ちょっとした面倒とわずかな不快より以外さしたることもないというばあいに、幸福でいる秘訣。私はそれをいっているのだ。

 この秘訣のなによりの規則とは、現在のもの昔のものいずれにしろ、自分の経験した不幸の話を絶対にひとにしないということであろう。たとえどんなにことばづかいに気をつけた場合であっても、自分の頭痛、はき気、口のにがさ、腹痛、こういうことを他人に話してみせるのは、礼節に反することとしてつつしむがいい。不当な扱いを受けたこと、見込みがちがったこと、そういうことがらについてもまた同じである。子供にも、青年にも、そしておとなたちにも、どうやらあまり皆が忘れすぎているちょっとしたことを、ここで説明しておきたいとおもう。それは、自分のことで泣きごとを並べると、聞いている他人をかならず悲しい気分にする、ということである。たとえ相手が打ち明け話を聞きたがっており、なぐさめることのできるのを歓迎しているようにみえるときでも、こういう泣きごとは、結局のところ、聞いているひとを不愉快にしてしまうのである。おもうに、悲しみというものは、ちょうど毒のようなものなのだ。悲しみを愛することはありうる。だが、そのために得をするということはありえない。そして最後には、まちがいなしに、もっと深い感情が勝つものである。ひとはめいめい、死ぬことではなく生きることのほうを求めている。そして、生きている人間、つまり、自分は満足していると言う人間、自分が満足しているのを示す人間、そういう人間たちを求めている。もしめいめいが、もえ残りの灰をみつめて未練がましくなげくかわりに、めいめいの割り木を火にくべるならば、人間の社会は、どんなにすばらしいか。…

 いま考えているこの幸福の秘訣に、わるい天気のよい利用法についての有益な助言もふくめてよかろう。これを書いている今、ちょうど雨が降っている。屋根瓦が音をたてている。かずしれない雨どゆは、とどめのないおしゃべりをしている。空気は洗われ、濾されたといってもいい。雲が壮麗なつづれに似ている。こういううつくしい物を捉えるすべをまなびたい。君が雨をなげいたところで、雨降りにはすこしもかわりはない。そうとも、雨の日にこそ、はればれとした顔がみたくなる。だから、わるい天気には上機嫌な顔を見せたまえ。」

-----
朝は機嫌よくしろ。
posted by Fukutake at 07:40| 日記

漱石の漢詩

「漱石の漢詩」 和田利男 文春学藝ライブラリー 2016年

 漱石と杜甫 p231〜
 「…漱石の漢詩に見られる特色の一つは色彩感の豊かなことである。これは彼が少年時代から絵画鑑賞の趣味をもっていたこと、殊に、「画のうちでは彩色を使った南画が一番面白かった。」(『思ひ出す事など』二十四)と述べていることや、後に自分自身好んで絵筆を執ったことなどを考えれば、別に不思議はないことであろう。
 ところで、漱石漢詩の色彩表現には一種独特の発想法が見られる。それは修飾すべき色彩語を被修飾語から切り離して句頭に提示する手法である。例を挙げれば大正五年九月十八日作「無題」詩の第三聯の二句、

  黄耐霜来籬菊乱   黄は霜に耐へ来つて 籬菊乱れ
  白従月得野梅寒   白は月に従ひ得て野梅寒し

 の上の句の「黄」は菊の色であり、下句の「白」は梅の色である。本来ならば直接その物の上に冠して修飾すべき色彩を、故意にその物から隔離して一句の頭に置いている。

 白浮薄暮三叉水    白は浮ぶ 薄暮 三叉の水
 青破重陰一点燈    青は破る 重陰 一点の燈

 同年九月二十五日の作、七律の第二聯である。この「白」も水の色であり、「青」は燈の色である。これらは読者の視覚にまずその色彩を映じさせようとする一種の強勢的倒置法である。漱石の漢詩中この種の表現を四例見ることができる。
 けれども、これは漱石の独創ではなく、実は杜甫が創始した句法なのである。たとえば、

  緑垂風折笋     緑は垂る 風に折れたる笋(たけのこ)
  紅綻雨肥梅     紅は綻ぶ 雨に肥えたる梅

 の二句は、前人に見られなかった独創的句法だと清の趙翼が『甌北詩話』中に評している。…」

-----

posted by Fukutake at 07:37| 日記