2022年11月13日

ヒーリング

「死ぬことが怖くなくなる たったひとつの方法 ー「あの世」をめぐる対話」 矢作直樹 x 坂本政道 徳間書房 2012年

ガンに対してできること(矢作) p173〜

 「現場を踏んでいくと、知識だけでなく知恵が身につきます。 その手術と並んで私が今注目しているのは、「スピリチュアル・ヒーリング」です。
 「人は死なない」にはほとんど書きませんでしたが、すでにスピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例はいくつもあります。 中国地方にいる某物理学者の方は、数年前にがんを患い、その後、腸閉塞を起こしたりして調子が悪かったそうですが、知人のヒーラーのところに行った途端、治ってしまったということです。 皮膚科でも取ったほうがいいと言われたがんが、ヒーリングを受けた一週間後にポロっと落ちてしまったそうです。 皮膚科の先生が相当驚いたそうですが、それは驚くのは無理もありません。

 そんな劇的な体験をしたのが物理学者だったものですから、ご自身も相当な感銘を受けたようで、次から次へと学校や物理業界で宣伝したそうです。
 他にもがんで手術をしようかと悩んでいたその先生の教え子の女子大生は、ヒーリング後にがんが消えてしまったそうで、当然がんが消えたその証拠も画像で残っているわけですが、彼女は手術しないですみました。
 スピリチュアル・ヒーリングは、別に稀なことではありません。
 この世界ではかなり有名な広島在住のT先生という方がいらっしゃるのですが、T先生は明確に、「業を落とすことはできるけれど、業の性質によっては延命できない」と仰っています。

 ただし、例えばがんの人でも二つ、必ずできることがあるそうです。
 一つは、苦しまなくすること。 薬でしか痛みや苦しみが取れないものを、取れるようにすること。 もう一つは、がんが怖くなくなることだそうです。 この二つはT先生を含めたヒーラーの皆さんが、どなたも同じように仰います。

 寿命は変えられなくてもエネルギーを受けることで、苦しみや恐怖感を取り除くわけですが、これをどう表現するのが適切なのかは悩むところでして、強いて言えば「向こう側の治療医」がこっちにチャネリングして、ある種の力を与えているのかなと私は想像します。

 通常の分子生物学的な理屈で、メッセージャーRNAが読まれて、さらにタンパクが合成されて、そのタンパクが働いているというロジックとはまったく噛み合いません。
 それこそ、キリスト教徒が読んでいる『新約聖書』に書いてあることって、イエス・キリストがなされた除霊とスピリチュアル・ヒーリングではないでしょうか。」

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「ヒーリングと人間の科学とは次元が違う」

posted by Fukutake at 10:52| 日記

江戸初期のキリスト教

「西欧社会と日本(上)」 G.B.サンソム ちくま学芸文庫 1995年

日本におけるキリ263(2)(一五四九〜一六一四) p263〜

 「一五九五年(慶長元)の末に、一隻のスペインのガレオン船(サン・フェリペ号)が土佐海岸で難破し、その地の支配者によって救助されたが、彼はその積荷をよこせと要求した。 スペインの水先案内人は怒って自国の君主の権力を自慢し、そのうえ、たぶん貿易と宣教師とは遠い国々を征服しようとする遠征隊の前衛だということをほのめかしたらしい。 この報せが秀吉のところに届くと、彼はすばやく行動をとった。 秀吉は何人かのフランシスコ会所属の日本人伝道士を逮捕し、首都内の改宗者名簿を用意させ、二十六人のキリスト教徒に死刑を宣告したのである。 そのなかには六人のスペイン人フランシスコ会士と上記の日本人伝道士とが含まれていた。 この二十六人がすべて一五九七年二月(慶長元年十二月)長崎で磔刑に処せられた。 フィリピン総督が抗議をすると、それに答えて秀吉は、日本人が日本の神々の信仰をフィリピンで説く権利がないのと同様、スペイン人には日本にスペインの宗教をもちこむ権利がない。 これらのフランシスコ会士たちは、日本征服を準備するため派遣されてきたものであり、それはちょうど彼らがフィリピン群島制服を準備したのと同じである。 スペイン人は原住民の支配者たちを追い払ったではないか、と回答した。

 その時以降、日本の各地にいた日本人キリスト教徒は、それぞれその地の支配者たちの手による迫害を免れない状態にあった。 殺害されるものもあれば、追放されるものも多かった。 教会やセミナリオは、つぎつぎ焼かれ、宣教師たちはしばらくの間身を隠すか、もしくは極度に用心して仕事に携わらなくてはならなかった。 秀吉自身は、一五九七年の禁令以後、さらにキリスト教を禁ずる立法は行わなかった。 彼は、第一回の朝鮮征伐(一五九二〜三年、文禄元〜二)に失敗を喫したあと、第二回の朝鮮征伐の準備に忙殺されていた。 彼は既に病に悩み、一五九八年(慶長三年八月)には不帰の客となった。 秀吉の政権は、強情に反抗する諸大名たちに対する闘争ののち、その同僚徳川家康により継承された。 この闘争は、一六〇〇年(慶長五年)の関ヶ原の戦で家康が決定的に勝利を占めて終結したのである。

 けれども、家康がすべての反対派を完全に服従させたのは、一六一五年(元和元年)に至ってからのことであった。 それだから、一五九八年以後数年の間はもちろん地方によっては厳しい迫害も見られたが、一般には布教活動が家康自身によってひどく妨げられるということはなかった。 家康には片づけなくてはならない緊急問題がもっとたくさんあり、しかも、彼は時機の到来を待つことを心得た注意ぶかい支配者であった。 彼は外国貿易に多大の関心をはらい、それ故、少なくとも彼自身の商船活動を拡げ得るに至るまでは、スペイン人ともポルトガル人とも友好関係を保とうと考えていた。

 ヴァリアーノは、一六〇三年(慶長八)の手紙で、一六〇〇年(慶長五)までにはすべての住居とほとんどの教会は再建され、しかも多数の新しい改宗者を出したと述べている。」

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posted by Fukutake at 10:49| 日記