2022年11月12日

天狗

「浮世道場」 群ようこ 講談社文庫 2006年

御伽草子 p42〜

 「『御伽草子』にある話をもとに、小泉八雲が『耳なし芳一』を書いたのは知られているが、『御伽草子』を読んでみると、
「どうしてこんなストーリーが作られたのだろうか」と感心するばかりだ。 昔話では「天狗」がよく登場する。 現代でも、
「私は天狗を見た」といって周囲の人を当惑させる人がいるらしいが、当時の人々にとっては天狗は、身近で不可思議な存在だったことがうかがえる。

 著者も天狗と何者であろうかと書いている。
「我朝にいふ天狗とはなにものやらん。 古今の大とここれを病めり。今とても自勝他劣の見にしづみ、我慢増上の念あらば、くちばしもつばさもなくて、生のてんぐとなるべし。 才智げいのうにつき、みづからたれりとおもはん人は、くらまのおくをたづぬべからず。 とをからぬこころのおくの道にまよひては、いにし世にも、みなかの道におち給ひしぞかし。 いはゆるほとけのどく、魅鬼(みき)のたぐひか」

 「あるてらの僧天狗の難にあひし事」はこの書き出しではじまる。古今の徳の高い僧が天狗の病を患った。 今の世の中でも、自分が優れていて他人は劣っているという考えに陥り、驕り高ぶって増長すれば、くちばしや翼がなくても、生きた天狗である。 才知や芸能について、自分は優れていると思っている人は、鞍馬の山奥を訪れてはいけない。 心の中の、自分は優れ、他人は劣っているという考えに陥って、過去にもみんな天狗の道に堕ちていった。 いわゆる仏の毒や物の怪(け)、霊魂の類なのだろうか。

 あるとき僧が寄り合いを持った。 そのなかで一人の僧が姿を消した。 あちらこちらを探してみたが、見つけることができず、みな嘆いていた。 三日後、寺の下僕が薪にする小枝を拾いに山に入ったところ、大木の登れないようなところに白い色のものが翻っているのを見、寺に帰って話をすると、みな不審に思ってその場所までいってみた。

 「まがふべうもなき、それとしるきからなりけり。 しろき小袖は木にかかり、かばねは方々へひきちらせり。 印契(いんけい)むすびし左右の手も、所々にみだれ、陀羅尼(だらに)を唱えし唇も、はや色かはりぬれば、中々にたづねてくやむありさまなりかし。 これなん天狗の所業(しわざ)ならん。 何たる犯戒(ぼんかい)したまひて、降魔(ごうま)の加護もなかりけると、あさましくもかなし」

 白い小袖は木に引っかかり、その根元で僧の亡骸は散乱している。 挿し絵では、腕を切り取られて、とほほ顔で死んでいる僧の姿が描かれている。 どんな仏の戒めを犯して、悪魔を降伏させる神仏の加護もなかったのかと、嘆かわしくも悲しいことであると結んでいる。」

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「自分が気にしない怪異は、全く難がない・理由もない気遣いにあれこれ心配し、さまざまな災を作り出す。 むやみに物事を気にかけないほうがよい。」
posted by Fukutake at 11:40| 日記

裏取引

「日本はなぜ外交で負けるのか」ー日米中露韓の国境と海境 山本七平 さくら社 2014年

日本人の知らない外交の常識 p69〜

 「裏取引は西欧の常識
 中東に関係の深いあるヨーロッパ人と話をした。 話題は「イラン石化問題」(注:ホメイニ革命で中断していた、三井グループのイラン石油プロジェクトへの日本政府の出資が、一九七九年一〇月に急に決まったこと)である。 彼は、今日、日本政府が乗り出すにあたって、どんな裏取引があったのかと執拗に聞き、そんなものはないといっても絶対に信用しない。

 アラブと関係の深いある会社の社長さんに会ったところ、同じことが話題になった。 この社長さんもヨーロッパで、どのような裏取引があったのか盛んに聞かれ、ついに返答に窮したそうである。
 これが西欧の常識なのである。 なぜか。 イスラムの世界と欧米、また日本の世界とは、契約という概念の基本が違うから、相互契約を結ぶときは必ず裏で、それを保証するなんらかの対策が取られている。

 それが武器の供与であったり、自国銀行への預金であったり、その併用であったりする。もちろん、これ以外にもさまざまな取引があるが、武器はまず不可欠であるといってよい。 そして、契約履行の保証上重要なのはこの点だというのが、彼らの常識なのである。
 ところが、日本ではそういうことは一切していない。 そして、もしこれらのこと、とくに武器の供与などということになれば、新聞はたちまち筆を揃えて徹底的に反対するであろう。 そして、その背後にあるものは、日本的な考え方・行き方が世界どこの国へ行っても通用するという錯覚である。

 もちろん、通用する国もある。 しかし、通用しない国もある。 そこで、もし自国の原則をあくまでも守るならば、通用しない国とは初めから交渉しない方が安全なのである。
 そして、もしあくまで相手との間で真に有効な契約を結んで妥結しようとするなら、相手の基本的な考え方・行き方を理解し、ある程度はこれに即応しなければ、不可能であろう。

 ではいずれを取るのか? これはわれわれが「外交」なるものに関して決断を下さねばならない問題である。
 もちろん、いずれの決断を下すにしろ、ある種の「覚悟」がいる。 そして、自国の原則をあくまで通すというなら、それを可能にするための内政的処理が必要とされるであろう。 というのは、外交とは、自国の現状に急激な変化を生じさせないため、外に向かって解決を求めることであり、簡単に言えば石油消費を現在のままにするため、あらゆる外交的手段を駆使してこれを獲得しようとする行き方である。

 言いかえれば、中東の諸国なら武器による裏取引は不可欠ということである。 そしてこれを拒否するなら、外の変化に対応できるような内を改革しなければならず、外交的処理でなく、内政的処理が強く要請されるわけである。」


「どちらもいやだというわけにはいかない」のだ。

posted by Fukutake at 11:34| 日記