「ゴッホの手紙(下)」J.v.ゴッホ-ボンゲル*編 硲(はざま)伊之助 訳
第六五十二信 一八七〇年五月二十九日当日持っていた手紙(テオの注)
(ゴッホは、1890年7月29日 37歳のとき、フランス ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ(パリの郊外)にて拳銃で腹を撃ち自殺した)
「君の思いやりのある便りと、同封の五十フラン札をありがとう。
いろいろなことを書きたいのだが、無駄だと思う。紳士方が君に対していろいろ便宜を計ってくれるように希っている。
君の家庭が恙無いと聞いて安心した。良い場合も悪いときも想像していたので、そう言ってくれなくてもよかった −−五階住まいで子供を育てることが、君にとってもジョにとってもどんなにか重労働であるかが、なるほど見当がつく −−順調にいっていればそれが何よりだ。どうして肝心なことでもない問題に僕が執着する必要があるあろうか。実のところ、もっと頭を冷静にして商売の話でもできるようになるにはまだ先の事だ。いま僕が言えることはそれだけだし、既に伝えたと思うが、ある程度の恐怖をもって自覚していた。別に隠そうとも思わなかった。だがそれだけのことだ。他の画家たちがどんな風に考えていようとも、無意識ながら実際の商売のこととは、およそかけ離れたことを考えている。
そうだたしかに、我々は自分たちの絵のことだけしか語れないのだ。
だがわが弟よ、いつもこのことは君に言ったし、最善を尽くそうと絶えず求めたものの考え方を真剣にもう一度伝えたい。繰り返して言うが君は単にコロの絵を売る画商とは全然違うし、僕を通じて何枚もの絵の製作に携っているわけだから、たとえ破産したとしても安心していていい。
こうした立場にあるわれわれにとって、関連性のある危機に際して君にそのことが少なくとも重要なのだと告げたい。現存の芸術家や過去の芸術家の絵と画商とはいま全く密接な関係にある。
そうだ、自分の仕事のために僕は、命を投げ出し、理性を失ってしまい −−そうだ −−でも僕の知る限る君は画商らしくないし、君は仲間だ、僕はそう思う、社会で実際に活動したのだ、だがいったいどうすればいい。」
----
人民とは
「商君書」−中国流統治の学− 商鞅 守屋洋 編訳 徳間書房 1995年
去強篇(国を強くするには) p124〜
「命を投げ出すのはなんのためか?
広大な国土を抱えているのに開墾を怠るのは、土地を持たないのと変わりがない。また、人口が多いのにそれを活用しないのは、人民がいないのと同じである。
それ故、国を治めるには、なによりもまず荒地の開墾につとめなければならない。戦いを始めるには、まず賞賜の基準を統一しなければならない。他の方法によって私利をはかる道を塞いでしまえば、人民は農業につとめるようになる。農業につとめれば、質朴になり、そうなれば国の法令を恐れるようになる。
また、勝手に賞賜を与えることを禁ずれば、人民は敵との戦いに全力を傾けるようになる。そうなれば戦いに勝つことができる。
どうしてそれがわかるのか。
そもそも人民というのは質朴でありさえすれば、どんな辛い仕事でも進んでやろうとするし生活が苦しくなれば、知恵をふりしぼって利益をはかるものである。進んでやる気になれば、命を投げ出して、喜んで国のために働くようになる。利益をはかろうとすれば、刑罰を恐れるようになり、苦労をいとわず働くようになる苦労をいとわず働くようになれば、土地の生産力は高められ、喜んで国のために働くようになれば、それだけで戦力を充実させることができるのだ。
為政者たるもの、土地の生産力を高め、人民に命を投げ出すように仕向けることができれば、名誉と利益と二つとも手にすることができる。
人民というのは、腹が空けば食べ物をほしがり、疲れたら休息を求め、苦しい目にあうと楽しみを求め、屈辱を受けると名誉をほしがるもの。これが人民の常である。ただし、利益を求めるときには、礼をふみはずし、名誉を求めるときには、ケジメを逸脱してしまう。
どうしてそうだと言えるのか。
盗賊を例にとろう。かれらは国の禁令を犯し、子としての礼にもはずれている。だから、名誉を失うばかりか自分の命まで奪われてしまう。それでも盗賊がやまないのは、利益があるからである。また、、昔のひとかどの人物を見ると、十分な衣服もなく、食べるものにも事欠くような生活のなかで、心も体も痛めつけ、五臓までそこなうような苦しみを嘗(な)めながら、気持ちだけは晴ればれとしていた。これは人間本来の姿だと思えない。にもかかわらず、それができたのは名誉が伴っていたからである。そんなわけで、「人民は、名誉と利益のあるところに集まってくる」というのだ。」
-----
去強篇(国を強くするには) p124〜
「命を投げ出すのはなんのためか?
広大な国土を抱えているのに開墾を怠るのは、土地を持たないのと変わりがない。また、人口が多いのにそれを活用しないのは、人民がいないのと同じである。
それ故、国を治めるには、なによりもまず荒地の開墾につとめなければならない。戦いを始めるには、まず賞賜の基準を統一しなければならない。他の方法によって私利をはかる道を塞いでしまえば、人民は農業につとめるようになる。農業につとめれば、質朴になり、そうなれば国の法令を恐れるようになる。
また、勝手に賞賜を与えることを禁ずれば、人民は敵との戦いに全力を傾けるようになる。そうなれば戦いに勝つことができる。
どうしてそれがわかるのか。
そもそも人民というのは質朴でありさえすれば、どんな辛い仕事でも進んでやろうとするし生活が苦しくなれば、知恵をふりしぼって利益をはかるものである。進んでやる気になれば、命を投げ出して、喜んで国のために働くようになる。利益をはかろうとすれば、刑罰を恐れるようになり、苦労をいとわず働くようになる苦労をいとわず働くようになれば、土地の生産力は高められ、喜んで国のために働くようになれば、それだけで戦力を充実させることができるのだ。
為政者たるもの、土地の生産力を高め、人民に命を投げ出すように仕向けることができれば、名誉と利益と二つとも手にすることができる。
人民というのは、腹が空けば食べ物をほしがり、疲れたら休息を求め、苦しい目にあうと楽しみを求め、屈辱を受けると名誉をほしがるもの。これが人民の常である。ただし、利益を求めるときには、礼をふみはずし、名誉を求めるときには、ケジメを逸脱してしまう。
どうしてそうだと言えるのか。
盗賊を例にとろう。かれらは国の禁令を犯し、子としての礼にもはずれている。だから、名誉を失うばかりか自分の命まで奪われてしまう。それでも盗賊がやまないのは、利益があるからである。また、、昔のひとかどの人物を見ると、十分な衣服もなく、食べるものにも事欠くような生活のなかで、心も体も痛めつけ、五臓までそこなうような苦しみを嘗(な)めながら、気持ちだけは晴ればれとしていた。これは人間本来の姿だと思えない。にもかかわらず、それができたのは名誉が伴っていたからである。そんなわけで、「人民は、名誉と利益のあるところに集まってくる」というのだ。」
-----
posted by Fukutake at 07:56| 日記