2022年11月08日

モームの見方

「英文快読術」 行方昭夫 岩波書店 同時代ライブラリー 1994年

「サミング・アップ」十六章 より抜粋 サマセット・モーム著p241〜

 「自分の落度が他人の落度よりもずっと許しやすいように思えるというのは、ちょっと見ると奇妙である。 その理由を考えてみると、自分がまずいことをした場合、その時の事情などをすべて知っているものだから、他人には許せないことでも、自分の場合はどうにか大目に見られるというのであろう。 自分自身の欠点からは目をそらし、何か都合の悪い出来事のために欠点に注目しなくてはならない時には、苦もなく許してしまうのである。 おそらくそうするのは誤っていないだろう。 というのも、欠点といえどもそれは自分の一部であり、人は自分の中にある良い面も悪い面も合わせて受け入れるべきだからだ。 けれども人は他人を判断する段になると、判断の基準となるのは本当の自分の姿ではなく、自分について抱いた理想像なのである。 理想像を描くとき人は自分の虚栄心を傷つけるものとか、世間に知られたら信用を落とすような点はすべて除外してしまっているのである。 些細な例を挙げてみよう。 誰かが嘘をついているのを見かけようものなら、いかにも軽蔑した態度を取りがちである。 しかし一度も嘘をついたことがない、いやそれどころか百度の嘘でもついたことがないと言いうる人がどこにいようか。 また偉い人たちが弱虫でけちだったとか、不正直であったり、自己中心的で性的に悪者だったとか、虚栄心が強いとか大酒飲みだったとか、判明すると人はショックを受ける。…」

(原文)p200〜
 「At first sight it is curious that our own offences should seem to us so much less heinous than the offences of others. I suppose the reason is that we know all the circumstances that have occasioned them and so manage to excuse in ourselves what we cannot excuse in others. We turn our attention away from our own defects, and when we are forced by untoward events to consider them find if easy to condone them. For all I know we are right to do this; they are part of us and we must accept the good and the bad in ourselves together. But when we come to judge others it is not by ourselves as we really are that we judge them, but by an image that we have formed of ourselves from which we have left out everything that offends our vanity or would discredit us in the eyes of the world. To take a trivial instance : how scornful we are when we catch someone out telling a lie; but who can say that he has never told not one, but a hundred? We are shocked when we discover that great men were weak and petty, dishonest or selfish, sexually vicious, vain or intemperate;…」
(「The Summing Up」by Somerset Maugham)

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posted by Fukutake at 08:07| 日記

幼き日の恋人

「銀の匙」 中勘助 作 岩波文庫

冬の夜の遊び p123〜

 「冬の夜の遊びはしみじみと身にしみて楽しいものである。

 お惠ちゃんは泣きまねが上手だった。 つまらないことを二言三言いいあううちに急にぷりぷりしたと思うといきなりひとの膝に顔をかくしておいおいと泣く。 私はその重たい温みを感じながら、簪をぬいてみたり、くすぐってみたり、手をかえ品をかえて機嫌をなおそうとすればなおなお泣き立てるのでこちらに咎はないと思いながらも一所懸命わびる。 と、さんざんにてごずらしておいてから不意に顔をあげべろっと舌をだして、ああいい気味だ というように得気に笑いこける。 すべっこい細い舌だった。 私はあまりたびたびその手をくったためしまいにはほん泣きかうそ泣きかを額に出る癇癪筋のあるなしで見わけることをおぼえた。

 また睨めっこが得意でいつも私を負かした。 お惠ちゃんの顔は自由自在に動いて勝手気儘な表情ができる。 さんがりめ なんといって両手で眼玉をごむみたいに伸び縮みさせたりする。 私はその睨めっこが大嫌いだった。 それは自分が負けるからではなくて、お惠のちゃんの整った顔が白眼をだしたり、鰐口になったり、見るも無惨な片輪になるのがしんじつ情けなかったからである。

 そんなにしているうちにいつか私はお犬様や丑紅の牛といっしょにお惠ちゃんまでを自分のものみたいに思ってその身にふりかかる毀誉褒貶の言葉や幸不幸な出来事はそのままひしひしとこちらの胸にこたえるようになった。 私はお惠のちゃんを綺麗な子だと思いはじめた。 それがどんなに得意だったろう。 併しそれと同時に自分の容貌は嘗て思いもかけなかったつたい重荷となった。 自分はもっと綺麗な子になってお惠のちゃんの心をひきたい。 そうして二人だけが仲よしになっていつまでもいっしょに遊んでいたい。 私はそんなことを考えはじめた。

 ある晩私たちは肘かけ窓のところに並んで百日紅(さるすべり)の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。 そのときなにげなく窓から垂れている自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとおるように蒼白くみえた。 それはお月様のほんの一時のいたずらだったが、もしこれがほんとならば、と頼もしいような気がして 
 「ほらこんなに、綺麗にみえる」
といってお惠のちゃんのまえへ腕をだした。
「まあ」
 そういいながら恋人は袖をまくって
「あたしだって」
といって見せた。 しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。 二人はそれを不思議がって二つの腕から膝、膝から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。」

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だれにもある幼き日の記憶

posted by Fukutake at 08:05| 日記