2022年11月07日

満洲の思い出

「綺堂随筆 江戸っ子の身の上」 岡本綺堂 河出文庫 2003年

満洲の夏 p289〜

 「 池
 この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私の一種今昔の感に堪えない。 わたしの思い出は可なり古い。 日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。

 満洲の夏ーそれを語るごとに、いつも先ず思い出されるのは得利寺の池のことである。 得利池は地名で、今ではここに満鉄の停車場がある。 わたしは八月の初めにここを通過したが、朝から晴れた日で、午後の日盛りはいよいよ暑い。 文字通り、雨のような汗が顔から一面に流れ落ちて来た。
「やあ、池がある!」
沙漠でオアシスお見出したように、私達はその池をさして駆けてゆくと、池はさのみ広くもないが、岸には大きい幾株の柳が涼しい蔭を作って、水には紅白の荷花*が美しく咲いていた。

 汗をふきながら池の花をながめて、満洲にもこんな涼味に富んだ所があるかと思った。 池の辺りには小さな塾のようなものがあって、先生は半裸体で子どもに三字経を教えていた。 わたしはこの先生に一腕の水を貰って、その返礼に宝丹*一個を贈って別れた。
 その池、その荷 ー 今はどうなっているであろう。



 満洲に水は悪いというので、軍隊が某地点にゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」と云う札を立てることになっていた。
 私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、恰も軍医部員が検査に来て、家のまえの井戸に木札を立てて行くところであった。 見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」

 人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。 これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。 この暑いに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、私は頗る悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。 わたしの家はここに五代も住んでいます。 私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ」
 今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。 而も満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。 わたしが普蘭店で飲んだ噴き井戸の水などは清冽珠の如く、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。」

(都新聞(昭和七年六月)/「猫やなぎ』収録)

荷*(花) 「いらつ(はな)」蓮の花
宝丹*  吐気、むかつきの薬



posted by Fukutake at 08:13| 日記

米国の愚かさ

「宮崎市定全集 20 菩薩蛮記」 1992年

『支那人気質』  p273〜

 「長く中国に住み、中国人の保守主義を備(つぶ)さに観察したアメリカ人宣教師、Arthur E.Smith が一八九四年に、" Chinese Characteristics " という書を著して評判になった。当時の大傑作と評せられ、確かに今でも役に立つ面白い読物である。 明治三十一年に日本で『支那人気質』という題で翻訳が出た。 日本人はこれを他山の石として、自らを顧みるために愛読したが、当時の中国人も心ある者はこれを有益な忠告として受けとめようとした。

 かの書は最後を次のように結ぶ。
 
 「現今の中国に要求されるのは正義感である。 そしてこれに到達するには、神についての知識と、人についての新しい観念、更には神と人との関係の正しい認識が是非とも必要である。 中国では凡ての人の魂の中において、家族生活において、社会生活において、従来と異なった新しい様式が必要とされている。 中国が必要とするものは多いのであるが、併しそれらは結局、只一つののっぴきならぬ必要に還元される。 そしてこの必要を満たすものはキリスト教文明を措いて外にない」と

 これこそ彼の本音なのだ。 当時のアメリカが抱いていた壮大な夢は、これまでヨーロッパの如何なる国も失敗に終わった、中国のキリスト教化を、自分の手によって達成することであった。 これをしもアメリカ帝国主義と言うならば、スミス宣教師たちは、その尖兵であったのだ。 そしてこの幻想が、その後の世界に大不幸を齎し、幾百万の血を流す不幸惨害を惹起する結果となったのだ。

第一次世界大戦後、それまで田舎者扱いされていたアメリカが、押しも押されぬ世界の覇者にのし上った。 ウィルソン大統領は下界の救世主よろしくの姿勢で、フランスに乗りこみ、講和会議を揺り動かした。 併しウィルソンの興味は、ヨーロッパの問題ではなかった。 むしろこの機会を利用して中国を国際舞台に引出すことによって日本の進出を抑えるにあった。 アメリカ留学生でクリスチャンネームを持つ青年が、一躍して大外交官に仕立て上げられ、中華民国全権委員の一人として、日本が戦時中に中国に押しつけたいわゆる二十一箇条を烈しく非難してその無効を主張した。 この筋書きの仕掛人ははっきりしないが、恐らく近頃勇ましい刑事犯娘を出したハースト財閥一味の政客と見てよいであろう。 その実、例の二十一箇条は当時の植民国家、現時の覇権国家の所業に比べれば、殆ど物の数でもなかったのだ。

 これに対し日本は、人種平等案を持出して一矢を報いた。 これに対しては当時の日本国内においてさえも冷ややかな反応が見られたが、併し在外同胞の立場から見る限り、これこそ畢生の悲願であったのだ。 どんなに欧米学校の優等生になろうと努力しても、人種的偏見の存する限り、その成績は活きてこないからだ。

 併し期待をかけた人種平等案は、アメリカの反対で訳もなく葬り去られた。 アメリカ学校の次期の優等生を狙う中国もその反対に加わった。 当時の現実は如何様にてもあれ、人種平等は疑うことのできぬ天下普遍の公理である。 これを明からさまに否決したのはウィルソンの標榜する理想主義にとって、またアメリカの伝統と誇る人道主義にとって、拭うべからざる一大汚点を印したのではなかったか。

 この後のアメリカ国策は一途に、善良なる中国への援助、不届きなる日本膺懲にに向けられ、執拗なる努力が続けられた。 その行きついた所が今度の太平洋戦争であったわけだが、その非はいったい日米何れにあるのだろうか。

 私は強い方のアメリカに六分の非があるものと信じている。」

(『展望』第二一八号、一九七七年二月)

----
本当は九分と言いたい。
posted by Fukutake at 08:10| 日記