2022年11月06日

来世はそばにある

「死ぬことが怖くなくなる たったひとつの方法 ー「あの世」をめぐる対話」 矢作直樹 x 坂本政道 徳間書房 2012年

 矢作直樹 「「あの世」と「この世」と、私たちは普通、言葉の上できっちり分類しています。 でもそれは本当に別の次元なのかなと、不思議に思っていました。 本当は地続きなのではないかと。 どこかの境界でガツッと切れているイメージを持っている人が多いと思いますが、私はそうではないと考えています。
 著書(『人は死なない』)で書きましたが。私はアパートで孤独死した母を、知人に頼んで降霊してもらったことがあります。

 それを体験して初めて、「この世」が断絶したポジションにはないのだという明確な事実を、実感しました。 ここにあるんです。 あの世は。 この手のすぐ前に。 もちろん、大半の人には見えませんから、そういうことを意識せずに皆、普通に生活しているだけです。 それぞれ皆さん、毎日の生活がありますからね。 要は「重なっているけれど、見えない」という解釈でいいと思います。 不可視というか、単に見えないだけです。
 
 この三次元世界の感覚にしがみついている状態なら、そういう仕組みは想像しにくいかもしれませんが、ある瞬間、何かの拍子にそれを感じてしまえば、「あ、なるほど」と納得するだけです。 でなければ、先ほどお話しした憑依や、あるいは私の母親のケースのような霊媒とか降霊という現象の説明がつきません。
 
 一瞬にして、人格というか個性が変わってしまいますからね。
 赤の他人だったら何かやらせないのかなと思うかもしれませんが、自分の知っている人が出てきて、しかもその人と自分しか知らないような話が次々に出てくれば、死後の存続(魂の永続)を疑うわけにはいきません。
 しかも「それはここにあるんだ」というくらい、身近になります。
 それでも人間は、多分神様がそう簡単にあちらへは行けないように、上手に創られたんだと思いますが、物質による縛りの大きな人がほとんどです。 かつて私もそうだったのだと思います。

 病理で解剖というのがあります ちょっと表現が悪いかもしれませんが、あえて言うと、身体がこんなになるまでよく生きていたなという状態の方に遭遇します。 一分一秒前まで、その身体が生きていたのだと思うと、非常に不思議なご遺体がたくさんあるのです。 その時、私は理屈抜きに思います。
 「本物は、本当のその人はそこにいるはずがない」
そんなふうに直感で思ってしまうわけですね。

 それは理屈ではありませんので、自分はそうだと感じたというくらいしか、ここでは表現できません。 しかしこれは正直な感想です。 臓器なんかもボロボロです。 ではそこにスピリットが入れば動くのかというぐらい、どこもかしこもボロボロな身体を大勢見ていると。そこに感じるものがあるのです。

 要するに肉体は、「入れ物」なんだと思います。」

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posted by Fukutake at 08:15| 日記

ただ念仏せよ

「一言芳談(いちごんほうだん)」 小西甚一(校注) ちくま学芸文庫 1998年

 「明禅法印のことば。 「ひたすら念仏をとなえるがよい。 石に水を描けるようなものだけれど、となえれば、ありがたい結果があるものだ。」」

 
「ある人のことば。 「慈悲の心をおこさないのは、まあ、しかたがない。しかし、人を憎んではいけない。」」

 
「また言われたこと。 「法師は、見さげされるようなのが良いのだ。」」


 「聖光上人のことば。「矢竹をまっすぐするのに、片目をふさぐと、うまくいくようなもので、このひとすじに精進する場合も、横目をしなければ、早く成就するものだ。」」


 「こんな話もある。 ある人が「まったく後世のためにするのだと決心しての学問なら、どうでございましょうか。」 と質問したところ、御返事に「最初は後世のためと思っていても、あとで例外なく名利のためになるものだ。」ということであった。」


 「また言われたこと。 「心が純粋であるかないかは問題ではなく、南無阿弥陀仏と唱える声そのものが大切なのだと、ほんとうに理解している人がいない。」」


 「ある人のことば、「世を捨てるといっても、徹底的な人間ぎらいになるのはいけない。 ちゃんとした理由もなしに人を恐れるのは、また、悪い結果をまねくもとになる。 いま世間から遠ざかるというのは、あくまで名声や利益にとらわれないようにするためなのである。 だいたい、普通の修行者は、たった一人ではやりにくいから、あまり名声や利益に心を向けさせない修行なかま一人か二人、なるべく協同するのがよろしかろう。 それだって、多数になると、何かにつけ問題があるものだ。」」




posted by Fukutake at 08:11| 日記