「本棚から猫じゃらし」 群ようこ 新潮文庫 平成九年
藤枝静男 「田紳有楽」より 前世が知りたい p59〜
「ある日、私は不愉快な奴を二、三人挙げて、物書きの友だちの前で、ぶりぶり怒っていた。 すると年下の美貌の作家が、
「おねえちゃん、そういう人ってたくさんいるけどね、私、こんな話を聞いたよ」という、学生時代、彼女のクラスにも、にこにこしながら、人を不愉快にさせる奴がいた。 彼女がそれに対して怒っていると、別のクラスメートがやってきて、
「あいつのことは許してやって。 あいつ、前世がないんだ」と耳打ちしたというのである。 そういう彼はいわゆる霊感があるらしく、クラスメートの前世とやらもいろいろ分かったらしい。
「そう思うとね、何をいわれても、『ああ、こいつ人間をやるのが初めてだから、こんなに馬鹿なんだ』ってあきらめられるから、腹も立たないよ」
私は彼女のことばに納得し、一瞬、目からウロコが落ちた気がした。
それならば許してやろうかとも思ったが、やっぱり不愉快な思いをするのはいやなので、慈悲の心を持つのはやめにして、徹底的に「人間的な口のききかた」を仕込んでやることに決めたのである。
最近、よく前世がどうの霊がどうのといわれるが、どこまでがほんとうなのかよくわからない。「人間をやるのが初めて」の話ほど私を納得させたものは今までなかった。 しかし、何でもかんでもわけのわからないことは霊のせいにしてしまうことにはには怒りを覚える。
装飾具に関するファッション霊、動物霊、生霊など、見えない部分への関心はつのっているらしい。自分で、
「私の前世はギリシャ時代の…」といい出す人もいるという。 たしかに、私は「人間が初体験」の話に納得したから、
「あんたたち、アホなことをいってるわね」と全面的に鼻でせせら笑うつもりはない。 見るからに、
「この人の前世はカッパだなあ」と感じさせる人もいるし、
「前世は岩石」といわれても、その通りとうなずきたくなる性格、風貌の人もいる。 それはそのまま、
「なるほどね」といっておけばよいことである。
そうじゃなくて、すぐ前世がこうだから、私は今、こうなっているとか、霊のおかげで迷惑をこうむったなどと騒ぎ立てるのは、いい加減にやめてもらいたいものだと思っている。」
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死
「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
死を思う p409〜
「死を直接われわれの背後、あるいは隣におくことによって、わたしたちはこの世の美しさを見ることがある。 そのような経験は、恐らくだれにもあるのではないか。 わたしにも多少それらしい経験がないではない。 死を思うというようなことも、ひところは日常のことでもあった。 しかし近ごろは、むしろ死を忘れていることが多い。 それは生活環境の変化によるとも解釈されるかも知れない。 しかし交通事情ひとつをとってみても、わたしたちが安心できる生活をしているとは言えないようである。 いろいろな不安を訴える情報も、むしろやかましすぎるくらいである。 わたしは自分自身が生活感情を次第に失いつつあるのではないかとも疑う。 老人心理というようなものについて、わたし自身どれだけ知っているのか。 知ったかぶりは笑われるだけであろう。 しかし年とともに、死もまた光を失い、次第に平凡なものになって行くのではないかと考えたりする。 つまり死ぬのが当たり前のことになってしまうのではないかと思う。 そうすれば、わざわざ死を考えることも少なくなるだろう。 時どき自分の所有をたしかめるような気持ちで、それを思い出してみても、それは家の中の日常の品と同じように、いつもそこにあるのが知られるだけである。 生とのコントラストも強烈ではない。 この世のすべてと同じように、死もまた日常見なれたものになってしまう。 これは自然の親切な配慮のようなものかも知れない。 生命は自然に枯れて行くというのであろうか。
しかしこれは必ずしも心境としてすぐれたものとは言えないだろう。 日常多忙のうちにあっても、われわれはいつも死を忘れている。 「死を思え」と哲学は教える。 いわゆる永遠の生命というものは、死なずにいつまでも生きているということではない。 いつまで生きてみたところで、わたしたちには解くことのできない問題がいくらでもある。 人生の大切な問題は、これまでの歴史において解くことができなかったものを、これからの歴史において解くことができるなどと信じてはいけないとも言われている。 われわれが今生において見たものがすべてなのである。 それは宇宙と共に無限であると言った人もある。 だから、限られた今生の間に垣間見られると言った方がいいのかもそれない。 恐らく生の最高潮において、そのことが起こると考えた方がいいだろう。 そしてその最高潮は、死との絶対的な対照において見られるのではないか。 「死を思え」ということは、実によく生きることの秘儀をなすのである。 愛と死の物語は、何かそのようなことを考えさせる。
心は堅く冷たくなって、死も驚きとはならない。 これはしかし、それだけでは悟りとは逆のものになってしまう。 いわゆる枯木寒巌の心では悟りにはならないだろう。 死と生がぼやけて行く枯死というものは、あるいは一番しあわせではないかと、老人心理では考えられたりする。 しかし青春の心理では死との対決において生命の勝利をねがうのではないか。 死は現代の哲学に残された唯一の何か絶対的なもので、時には気のきいた哲学的な手品の種に用いられることもある。しかし切に死を思うというのは、そういうこととは別である。 恐らく愛と共に考えなければいけないのだろう。」
(『朝日新聞』一九六八(四三)年七月十四日)
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死を思う p409〜
「死を直接われわれの背後、あるいは隣におくことによって、わたしたちはこの世の美しさを見ることがある。 そのような経験は、恐らくだれにもあるのではないか。 わたしにも多少それらしい経験がないではない。 死を思うというようなことも、ひところは日常のことでもあった。 しかし近ごろは、むしろ死を忘れていることが多い。 それは生活環境の変化によるとも解釈されるかも知れない。 しかし交通事情ひとつをとってみても、わたしたちが安心できる生活をしているとは言えないようである。 いろいろな不安を訴える情報も、むしろやかましすぎるくらいである。 わたしは自分自身が生活感情を次第に失いつつあるのではないかとも疑う。 老人心理というようなものについて、わたし自身どれだけ知っているのか。 知ったかぶりは笑われるだけであろう。 しかし年とともに、死もまた光を失い、次第に平凡なものになって行くのではないかと考えたりする。 つまり死ぬのが当たり前のことになってしまうのではないかと思う。 そうすれば、わざわざ死を考えることも少なくなるだろう。 時どき自分の所有をたしかめるような気持ちで、それを思い出してみても、それは家の中の日常の品と同じように、いつもそこにあるのが知られるだけである。 生とのコントラストも強烈ではない。 この世のすべてと同じように、死もまた日常見なれたものになってしまう。 これは自然の親切な配慮のようなものかも知れない。 生命は自然に枯れて行くというのであろうか。
しかしこれは必ずしも心境としてすぐれたものとは言えないだろう。 日常多忙のうちにあっても、われわれはいつも死を忘れている。 「死を思え」と哲学は教える。 いわゆる永遠の生命というものは、死なずにいつまでも生きているということではない。 いつまで生きてみたところで、わたしたちには解くことのできない問題がいくらでもある。 人生の大切な問題は、これまでの歴史において解くことができなかったものを、これからの歴史において解くことができるなどと信じてはいけないとも言われている。 われわれが今生において見たものがすべてなのである。 それは宇宙と共に無限であると言った人もある。 だから、限られた今生の間に垣間見られると言った方がいいのかもそれない。 恐らく生の最高潮において、そのことが起こると考えた方がいいだろう。 そしてその最高潮は、死との絶対的な対照において見られるのではないか。 「死を思え」ということは、実によく生きることの秘儀をなすのである。 愛と死の物語は、何かそのようなことを考えさせる。
心は堅く冷たくなって、死も驚きとはならない。 これはしかし、それだけでは悟りとは逆のものになってしまう。 いわゆる枯木寒巌の心では悟りにはならないだろう。 死と生がぼやけて行く枯死というものは、あるいは一番しあわせではないかと、老人心理では考えられたりする。 しかし青春の心理では死との対決において生命の勝利をねがうのではないか。 死は現代の哲学に残された唯一の何か絶対的なもので、時には気のきいた哲学的な手品の種に用いられることもある。しかし切に死を思うというのは、そういうこととは別である。 恐らく愛と共に考えなければいけないのだろう。」
(『朝日新聞』一九六八(四三)年七月十四日)
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posted by Fukutake at 08:42| 日記