「宮ア市定全集 22」日中交渉 岩波書店 1992年
人物を見る目 p198〜
「中国の土地が広く、人口の多いことは、個人の性格を複雑ならしめると共に、また各種各様の異なった個性のある人物を生み出す地盤ともなる。だから、ある個人をこういう人物だと簡単に片付けることができぬと同じように、中国人はこういうものだというふうに、うっかり断定はできないのである。一方に権勢亡者や黄金崇拝があれば、他方には清浄な隠遁者がある。
一般に、中国には大勢順応者が多く、革命がおきればすぐに革命派、反動が盛んにさればたちまち反動派というふうに姿勢をかえて行くのが普通だと思われがちである。ところが実際は中国人の中には、どこまでも確固たる信念をもち続け、決して外界から影響をうけない人物がいる。
清朝末に起こった義和団事件(一九〇〇年)の際である。西太后は全国に命令して、すべての在華外人をみな殺しにしてしまえ、という恐るべき詔を下させた。もしこれが実行されていたなら、未曾有の惨事が持ち上がったことはもちろん、さらに外国軍の北京占領後、どんな残酷な復讐が行われたかしれない。このとき、事の重大性に気付いた許景澄(きょけいちょう)、袁昶(えんちょう)のふたりの官吏はこの詔勅を握りつぶして外部へ発送させなかった。ふたりはそのために死刑に処せられたが、おかげで莫大な人命が助かった。あのような昂奮した空気の中で、多数の意向に反して反対の行動をとることは、よほどの勇気がいる。このふたりは正に、身を殺して仁を成す、という儒教の教えをそのまま実行したのである。
現在中国は、北京を中心として紅衛兵運動の嵐の中に、全社会が埋没してしまったような感じである。しかし全部の学生が紅衛兵になってしまったのではない。かえってこのような風潮にあきたらず、将来にそなえて勉学を続けている者もあるだろう。あるいは小さい声ながら反対を叫んでいる勇士もないとは限らない。しかしそんな声は多数の声にかき消されて外部へは洩れてこない。
多種多様な人物に富む中国人は、いきおい人物を評価する鑑識眼が高い。かれらは決してただ表面だけを見て評価を下さない。必ず裏面を予測して立体的に観察する。こういう点にかけては日本人はまだ立ちおくれている。おそらく旧制高校生の程度であろう。
私は旧制高校生を経験し、後に旧制高校の教授をつとめたことがある。教授になって内側から見ると、自分の人物眼が高校生時代のそれとまるきり違うものになっていることを知った。生徒から仙人のように見られ、偶像のように尊敬されていた教授が、かえって物欲の深い吝嗇家であったりする。ひどいのになると教官室の番茶を平然として家へ貰って帰るが、生徒はそんなこととは全く露知らずである。そういう高校生が大学に入り社会に出ても、本当の勉強をしないと、その人物眼は少しも進歩しないのである。」
(『歴史研究』七十七号、一九六七年一月)
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枕草子ーにくきもの
「枕草子」 少年少女古典文学館(4) 大庭みな子 講談社 1991年
第二八段 いやな、にくらしいもの (にくきもの) つづき p49〜
「しのびいるとき、ぎょうぎょうしい長い烏帽子をかぶって、人に気づかれまいとあわてて、ものにつきあたってがさりと音をたてるのはにくらしい。 簾(すだれ)などかけてあるのをくぐるとき、さらさら音をたてるのもにくらしい。とかく簾というものは、あげるときは音がしがちなのだから、気をつけてそっとひきあげれば音がしないのに。
ねむくなって横になったのに、蚊がぶうんと音をたててやってきて、顔のまわりを飛びかい、蚊の身ほどの羽音をたてるのもにくらしい。
きしんだ音をたてる車に乗りあるく者。 乗っていてきこえないのかしらとにくらしい。他人の車に乗っているときでも持ち主までにくらしい。
人が話しているのに、横から口をいれてひとりでしゃべりまくる者。でしゃばりは子どもでも大人でもいやなものだ。 たまたまちょっときた子をかわいがってめずらしいものなどやると、くせになっていつもきてはいりこみ、家具などいじりまわすのはいやだ。
家にいるときでも、宮仕えするところでも、あいたくない人がきて、たぬきねいりをしているのに。召し使いがおこしにきて、まあ、ねすごしていらっしゃるとおこしたりするときのしゃくにさわること。 新入りが古くからいる者をさしおいて、もの知り顔に教えるようなことをいい、あれこれさしずするさま。
自分の愛人だと思っている男が、前にあった女のことを思いだしてほめたりするのは、すぎたむかしのことだとは思っても、やはり、にくらしい。 ましていまのことだったりすればそのにくさ。 とはいえ、そうでもないこともあったりするのだから、男と女の間のことはふしぎ。
くしゃみしておまじないとなえる人。 一家の主人の男性でもなければ、あたりをはばからずくしゃみをするのはにくらしい。
のみもにくい。 服の下でもぞもぞもうごいて布を持ちあげるようにする。 犬がなんびきもあつまって鳴きたてるのは、なにかへんなことがおこるようで気味がわるい。
出たりはいったりしたあとで戸をしめない人のにくらしさ!
(大庭) 目に見えるようなあざやかな描写だ。これとまったくおなじ人たちの姿は現代にもそこらじゅうにいる、腹を立てたり、いらいらしている気分もそっくりそのままだと思う。わたしが十五、六のとき初めて読んでひどく感心したものだが、それから四十年以上たって読んでも、ものなつかしく、ふたたびそうだそうだとうなずく。描写の的確さは名画の真実と似ている。」
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第二八段 いやな、にくらしいもの (にくきもの) つづき p49〜
「しのびいるとき、ぎょうぎょうしい長い烏帽子をかぶって、人に気づかれまいとあわてて、ものにつきあたってがさりと音をたてるのはにくらしい。 簾(すだれ)などかけてあるのをくぐるとき、さらさら音をたてるのもにくらしい。とかく簾というものは、あげるときは音がしがちなのだから、気をつけてそっとひきあげれば音がしないのに。
ねむくなって横になったのに、蚊がぶうんと音をたててやってきて、顔のまわりを飛びかい、蚊の身ほどの羽音をたてるのもにくらしい。
きしんだ音をたてる車に乗りあるく者。 乗っていてきこえないのかしらとにくらしい。他人の車に乗っているときでも持ち主までにくらしい。
人が話しているのに、横から口をいれてひとりでしゃべりまくる者。でしゃばりは子どもでも大人でもいやなものだ。 たまたまちょっときた子をかわいがってめずらしいものなどやると、くせになっていつもきてはいりこみ、家具などいじりまわすのはいやだ。
家にいるときでも、宮仕えするところでも、あいたくない人がきて、たぬきねいりをしているのに。召し使いがおこしにきて、まあ、ねすごしていらっしゃるとおこしたりするときのしゃくにさわること。 新入りが古くからいる者をさしおいて、もの知り顔に教えるようなことをいい、あれこれさしずするさま。
自分の愛人だと思っている男が、前にあった女のことを思いだしてほめたりするのは、すぎたむかしのことだとは思っても、やはり、にくらしい。 ましていまのことだったりすればそのにくさ。 とはいえ、そうでもないこともあったりするのだから、男と女の間のことはふしぎ。
くしゃみしておまじないとなえる人。 一家の主人の男性でもなければ、あたりをはばからずくしゃみをするのはにくらしい。
のみもにくい。 服の下でもぞもぞもうごいて布を持ちあげるようにする。 犬がなんびきもあつまって鳴きたてるのは、なにかへんなことがおこるようで気味がわるい。
出たりはいったりしたあとで戸をしめない人のにくらしさ!
(大庭) 目に見えるようなあざやかな描写だ。これとまったくおなじ人たちの姿は現代にもそこらじゅうにいる、腹を立てたり、いらいらしている気分もそっくりそのままだと思う。わたしが十五、六のとき初めて読んでひどく感心したものだが、それから四十年以上たって読んでも、ものなつかしく、ふたたびそうだそうだとうなずく。描写の的確さは名画の真実と似ている。」
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posted by Fukutake at 11:10| 日記