2022年11月29日

もてる? もてない?

「パンチパーマの猫」 群ようこ 文春文庫 2005年

「自分はモテる」 p150〜

 「「自分は何歳になっても異性にもてる」と信じている人々がいる。
 昔、厚化粧だった人は今も厚化粧のまま。 していない人もそのまんま。 思考が停止しているのだ。 三十代、四十代とその節目節目に、自分は何が似合うのか、どうしたらいいのか、私は知り合いに聞いたことがあった。 客観的に見てもらうことも必要だと思ったからだが、友人のアドバイスはとても参考になった。 そんなに誰も自分のことが完璧にわかるわけではない。 まさに「我が身の事は人に問え」である。 しかし彼らはそうではない。 あまりに自分に自信がありすぎるために、他人の意見なんか聞かないのだ。

 私は若い頃から多くの男性にもてるということがなかった。 どちらかというと、誰もが好きなおかずというよりも、珍味タイプだったらしい。 またそういう私を気に入ってくれる男性をこちらが気に入らず、もてるなんていう時期を過ごした記憶は全くない。 だからいつも現実を直視し、「ふむ、皮膚がたるんできた」 「しわが出てきた」 「おお、しみまで」と確認し続けた。

 それは辛いことでもあった。 誰だって若い頃の容姿をそのままでいたいと願うだろうが、そんな事は無理なのだ。 その辛いことをどっと受け止めで生きていかないと、しょうがないではないか。 異性にもてないよりはもてたほうがいいのかもしれないが、それだって人生の中で重要な問題ではない。 きっと彼らにとっては異性に人気があるということが、重要な意味をもっているのだろう。

 「勘違いの人たち」と彼らに対して呆れたけれども、よく考えてみると、彼らは幸せなのかもしれない。 現実を目の当たりにしても、そうではないと思えるどころか現実ばなれした神経を持っているからだ。 それによって迷惑を被っているわけでもないし、私が考えている事は余計なお世話なのだ。 ずっと若い頃の感覚が抜けない人たち、私にも若い娘時代はあった。 仕事で男性と一緒に外出してもトイレに行けなかったり、友だちと旅行に行くと、必ず便秘になった。 それが三十代、四十代になり、どこでも誰がいても思いのままに用が足せる体になったと気づいたとき、自分の中で、ぶっちと何かが切れた。 終わったという感慨があった。 それでもぶっちと切れたあと、とても気が楽になった。 しかし彼らにはそれがない。 これからもずっと錯覚を持ち続けていく。 幸せであるとはいえ、これから年を取るにつけ、何だか辛そうと、またまたお節介な気分がわいて出てきたのであった。」

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posted by Fukutake at 07:43| 日記

絶対的権威は不可能

「日本的革命の哲学」 山本七平 PHP 昭和五十七年

明恵上人 p92〜

 「明恵上人は講義・講話の名手であったらしく、二十一歳のとき東大寺の弁暁から公請(仏法の講義のため朝廷に出仕すること)の依頼をうけとっている。 これは隠遁のため実現しなかったが、彼に「話術の天才」といえる一面があったことは、多くの説話に表れている。 これが(北条)泰時のみならず多くの人を引きつけた一因であろう。 だがこのことは決して、彼が、世俗的世界に何らかの関心をもち、講義を通じて政治的影響力を行使しようとしたわけではない。

 では一体こういう人が、大きな政治的・社会的影響力を持ち得るのであろうか。 それはありそうでもないことに思われるが、最も非政治的な人間こそ、大きな政治的変革を誘発し得るのである。 これは一見奇妙に見える逆説である。 しかし最初に記した西欧型革命を思い出していただければ、この「誘発」があり得て不思議ではないであろう。 もちろんそれはその「誘発の型」が泰時においても同じだと言うことではないが、基本的図式は同じである。 西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」であることは前述した。 この場合それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行われるから、体制の中に絶対性を置いたら行ない得ない。 従って革命は宗教乃至は二十世紀的宗教すなわちイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。

 この点では泰時の前提も同じであり、体制の内部に絶対性を置けば、それは天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。 というのは天皇絶対とすれば天皇の利害が絶対化する。 そうなれば第一、承久の乱を起こすことさえ不可能である では幕府を絶対とすることができるのか。 武力で天皇政権を倒した幕府を絶対化することは武力を絶対化することであり、それを実現するためには簡単にいえば、強力な軍事政権が必要だが、これまた現実には不可能である。 火器が発達し、そのため民衆の抵抗力が甚だしく減殺され、さらに恐るべき機動力が地球を狭くした現代ですら、武力の絶対化は不可能である。 まして「自主参加の御家人集団」の「軍事政権化」がナンセンスであろう。

 では、武力で一応政権を奪取した段階で、人びとの意識を改革して幕府絶対化の文化大革命を起こすべきであろうか。 だがそれは不可能である。 幕府を絶対化すれば幕府の利害が絶対化する。 その場合、泰時がいかに利害を絶対化すまいとしても、幕府のほかに絶対化の基準がなく、それは現実に統治している以上すでに体制の中にあるのであって体制の中にあれば現実の利害の中にあることは避けられない。そうなれば第二の後鳥羽上皇に転落するだけであろう。 この失敗は文化大革命によく現れている。 毛沢東個人がたとえどのような意図を持とうと、彼の周囲にある者は、現実の利害に対応して動かざるを得ず、それは彼の側に立つように見えようと、彼に反対する側に立つと見えようと同じであるからである。 この点から考えれば、現実に世の中に寄食しつつなお「世直し運動」をやるなどということは、はじめから意味はない。 現にその種の「運動」で社会が変革したという例はあるまい。 それは権力と権威を一身に兼ね備えたような毛沢東でも不可能なことであった。」

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現中共政権はマルクス主義イデオロギーをも無視し、自己絶対化を推し進めている。 政権の内部に絶対者がいる限り、いつかは他の基準(内部崩壊、外国、不平勢力により倒される宿命にある。
posted by Fukutake at 07:40| 日記

2022年11月28日

人生のなぞ

「小林秀雄全集 第六巻」− ドストエフスキイの生活− 新潮社版 平成十三年

人生の謎 p551〜

 「サント・ブウヴが、かういふ事を言つてゐる。
「人生の謎とは一體何であらうか。それは次第に難かしいものとなる。齢をとればとる程複雑なものとして感じられて来る、そしていよいよ裸な生き生きとしたものになつて来る」(Mes Poisons)
 何でもない言葉として讀み過ごす人もあらうし、心にこたえる言葉と感ずる人もあらう。言葉といふものは、みなさういふものだ。人間は言葉で何物も確實に證明する事は出来ないのだから。

 それは兎も角、このサント・ブウヴの言葉は、僕には心にこたへる。それは、一度聞いたら忘れられぬ音樂の一章句の様に、事に當つて心のうちで鳴る。或る人の思想がある人に傳はるといふ事はさういふ具合のものだ。それ以外の傳はり方はない、とも考へる。音樂の一章句の様に、分析もならず、解釋もならぬ様な言葉を人の心に傳へる事、これが詩人の希ひである事を、誰も疑ふまい。併し所謂思想家と言はれる人々は、かういふ健全な詩人の希ひを、子供らし安易な希ひだと思つてゐるのが普通である。罰はいづれ當るのだ。言葉による證明を過信して、空しい辨證家になり終る。

 僕は、ディアレクティシアンに用があつた事はないし、將來も用はないだらう。僕は、大變音樂が好きだから、喩へたいのだが、一度聞いたら忘れられない音樂の様な思想ばかりを探してゐる。どんな切れ端でもいい、事に當つて又しても心の裡(うち)に鳴る様な思想なら僕にとつては貴重な思想である。

 人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと眞實な思想であらうか。僕は、人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思つてゐないが、思案を中斷した事もなかつたと思つてゐる。そして、今僕はどんな動かせぬ眞實を掴んでゐるだらうか。すると僕の心の奥の方で「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」とささやく者がゐる。やがて、これは、例へばバッハの或るパッセージの様な、簡潔な目方のかかつた感じの強い音になつて鳴る。僕はドキンとする。

 主題は既に現れた。僕はその展開部を待てばよい。それは次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたものになつて来る」。僕は、さうして来た。これからもさうして行くだらう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要らう。要らないものは、だんだんはつきりして来る。」

(「帝國大學新聞」、昭和十四年十月)

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posted by Fukutake at 08:33| 日記