2022年10月25日

市川団五郎

「綺堂随筆 江戸っ子の身の上」 岡本綺堂 河出文庫 2003年

市川団五郎 p80〜

 「新聞を見ると、市川団五郎が静岡で客死したとある。 団五郎という一俳優の死は、劇界に何等の反響もない。 少数の親戚や知己は格別、多数の人々は恐らく何の注意も払わずにこの記事を読み過ごしたであろう。 しかも私はこの記事を読んで、涙をこぼした一人である。

 団五郎と私とは知己でも何でも無い。 今日まで一度も交際したことは無かった。 が、私の方ではこの人を記憶している。 歌舞伎座の舞台開きの当時、私は父と一所に団十郎の部屋へ遊びにゆくと、丁度わたしと同年配ぐらいの美少年が団十郎の傍に控えていて、私達にお茶を出したり、団十郎の手廻りの用などを足していた。云うまでもなく、団十郎の弟子である。
「綺麗な児だが、何と云います。」
父が訊くと、団十郎は笑って答えた。
「団五郎というのです。 いたずら者でー。」

 答えはこれだけの極めて簡短なものであったが、その笑みを含んだ口吻にも、弟子を見遣った眼の色にも、一種の慈愛が籠もっていた。 この児は師匠に可愛がられているのであろうと、私も子供心に推量した。
「今にいい役者になるでしょう。」
父が重ねて云うと、団十郎は又笑った。
「どうですかねえ。 しかしまあ、どうにかこうにかものにはなりましょうよ。」

 若い弟子に就いての問答はこれだけであった。やがて幕が開くと、団十郎は水戸黄門で舞台に現れた。 その太刀持ちを勤めている小姓は、かの団五郎であった。 彼は楽屋で見たよりも更に美しく見えた。 私は団五郎が好きになった。

 けれども、彼はその後いつも眼につくほどの役を勤めていなかった。 番附をよく調べて見なければ、出勤しているのか居ないのか判らない位であった。 その中に私もだんだん年を取った。 団五郎に対する記憶も段々薄らいで来た。 近年の芝居番附には団五郎という名は見えなくなって了った。 二十何年振で今日突然その訃報を聞いたのである。 何でも旅廻りの新俳優一座に加わって、各地方を興行していたのだという。 それ以上のことは詳しく判らないが、その晩年の有様も大抵な想像が付く。

 日本一の名優の予言は外れた。 団五郎は遂にものにならずに終わった。 師匠の眼鏡違いか、弟子の心得違いか。 その当時の美しい少年俳優が斯ういう運命の人であろうとは、私も思い付かなかった。」

『五色筆』(大正六年十一月 収録)
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posted by Fukutake at 09:48| 日記

化けて出よ

「冷暖房ナシ」 山本夏彦 文春文庫 1987年

黒表紙 p99〜

 「たとえば新聞は「成田で警官三人死ぬ」と当時は書いた。 警官と学生が衝突すれば新聞は必ず学生の味方をする。 警官死ぬと書けば、それはひとりで勝手に死んだように聞こえる。 殺されたとは思えない。 もし学生が死んだら新聞は成田で三人惨殺されると勇んで書くだろう。 それにしても死ぬとは苦心の表現である。 学生に味方をするとしぜんこうなると私は左のように論じた。

 ーたしかに犯人はあのなかにいる。 殺されたのは同僚の警官である。 屋上に立てこもった新左翼系の学生は花壇をこわして、はじめは小さなコンクリートのかたまりを、次いで大きなかたまりを落としたのである。 小さな石をかわしてよろめいたところへ大きなかたまりが頭に当ったのである。

 同僚に死は殉職である それなのに新聞はひとりで勝手に死んだように書く。 だから警官たちは草の根わけても犯人をさがしだす。 世界に冠たる日本の警察だもの法政大学の、また日本大学の屋上から石を投じた学生を逮捕することはできる。 訴えることはできる。 それでも裁判では勝てない。 たしかに屋上にいてたしかに石を投じたことまでは立証できても、だれの石が当って死んだかは立証できない。 結局全員微罪で釈放される。 喜々として釈放されて彼ら良心はいたまない。 今後とも枕を高くして寝るだろう。 ひとり死んだものは浮かばれない。

 裁判なんて今も昔もこんなものである。 けれどもいくら釈放されても昔は化けて出るからよかった。 ひとり犯人だけは知っている。 よろめいたところへ自分の石が当って快哉を叫んだのだから知っている。 裁判で無罪になっても、それからというもの毎晩のように出てきてうなされるのである。 許してくれ許してくれと叫んでも出てくるのである。 そして犯人はとり殺されるのである。

 昔は幽霊が信じられていたから、いくら裁判が間違ってもかまわなかったのである。 今は信じられないからかまうのである。 時あたかもお盆である。 お盆には幽霊はつきものである。 非業の最後をとげて浮かばれない亡者たちよ勢揃いして出て夢枕に立つがよいと私は書いたのである。

 新左翼の学生は殺しても無罪になる殺しかたに従って殺している。 その虎の巻は国労全逓日教組の虎の巻を抜粋してより尖鋭にしたものである。 それには証拠の残らない拷問のしかたが書いてある。 組合員や学生がそんなことを一々発明できない。 虎の巻に従っているだけである。」

(昭和五十七年七月)




posted by Fukutake at 09:45| 日記