2022年10月22日

正しい認識

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年

ねこを斬る p274〜

 「むかしは仏性ということをやかましく言ったのではないだろうか。 わたしはその方の専門家ではないからむずかしいことは何も知らない。 しかし狗子*(くし)に仏性ありやというような問答について聞いたことがある。 そして近ごろの人間性論議と似たようなものではないかと考えたりする。

 しかしねこにも仏性があるとしたらどうなるのか。 昔一人の坊主が、そういう小賢しげな議論をしり目に、いきなり刀を抜いてねこを斬りすてたという話がある。 これが人間性の話ならどうするだろうかと、悟りすまして人に聞いてみたいような気もする。 ねこを斬るようには簡単にいかないが、やはり自己の人間性というようなものも斬りすてる覚悟がいるのではないかと思う。

 わたしたちは自分の言行に大義名分となるものを求める。 わたしたちは自分が正しいと言われれば、勇気も百倍するけれど、世論の袋だたきにあって、自分の正義が立たなくなれば、言動にも勢いがなくなってしまう。 また自分一人の意見は言いにくいけれども、主婦だとか労働者農民だとか、あるいは母親あるいは人間と名のれば、背後に幾百万の味方がついているような気になって、時にはずいぶん思いきったことも言えるようになる。

 しかし自分ひとりが正義を背負っているのでもなければ、自分だけが人間だということもないのである。 この否定面の認識がねこを斬らせることになるのではないか。 独善はなかなか否定しきれないのである。 よく学者の良心とか裁判官の良心とかいうことが言われるが、これも共同声明などで片づくことではないのである。 自分は果たして正義をつくしているか、自分自身のうちにかえって非人間性がありはしないかという、むしろ自己認識の孤独な戦いがそれなのだ。」

狗子*(くし) 犬ころ、子犬

(朝日新聞(大阪版)「天窓」 一九七一年五月二十九日)

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posted by Fukutake at 09:05| 日記

北方領土

「日本はなぜ外交で負けるのか」ー日米中露韓の国境と海境 山本七平 さくら社 2014年

北方領土問題 p53〜

 「明治八年(一八七五年)の千島・樺太交換条約によって日本が千島を領有したことは事実であろう。 しかしその状態で戦後を迎えたわけでなく、その三十年後の明治三八年(一九〇五年)に日本は、戦勝により、千島を保持したまま樺太の南半分をも領有するに至った。 だが「勝者の論理」はそれを不当と考えず、樺太が半分であったことと償金がとれなかったことに逆に不当を考えた。 だがこれは、先方から見れば「敗戦により不当に奪取され、交換条約は無視された」ことになる。

 それから四〇年後、昭和二〇年(一九四五年)に、今度はソビエト・ロシアが樺太を回復し、ついで千島を占領した。 これを日本の側から見れば、今度はこちらが「不当に奪取された」わけだが、先方は日露戦争当時の日本人と同様、不当に奪取したとは考えていないであろう。 いや、何かかもっと取れなかったことを、不当と考えているかもしれない。

 確かにポツダム宣言の字句の解釈で、先方を不当と言い得るであろう。 しかし、最初の取得が「交換条約」であったこと自体、これらがともに伝統的な固有の領土ではなく、明確な「領有」をどこも主張するに至っていない「未確定地域であった証拠」だから「固有の領土」に入らない、という主張も成り立つ。

 言うまでもないが、「成り立つ」ということは、こちらがそれを主張するということではない。 まことに奇妙なことだが、「それなら相手も同じことを主張できるはずだ」とその事実を述べただけで「おまえはどちらの人間だ」と言って憤慨する人がいる。

 この「何々の側の論理」ぐらい奇妙なものはないのだが、このことは、将棋のプロは、頭の中で盤を逆転させ、相手の位置に立って局面を見うる、これができればプロ、できなければプロと言えない、という言葉と実質的には何の違いもない ー 少なくとも「交渉」という言葉を口にするならば ー 。

 どの交渉とて同じだが、今回も「日ソ交渉将棋盤」を頭の中で自由自在に逆転させて「局面」を見なければ、何の「手」も見つかるはずはない。 このことはもちろん、相手に迎合して相手側に立った日中交渉方式のそれと同じことをやれと言うのではない。

 あくまでも「手」を探し出す手段であり、これができねば「手」が探し出せず、「手」を探し出せないなら一方的に指し切られて当然だということにすぎない。 そしてその結果は、こちら側だけに立とうとあちら側だけに立とうと同じことなのである そしてその当然の結果を招来したことをまた「不当だ、不当だ」と叫んだとて、それもまた何の解決も招来しない。」

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posted by Fukutake at 09:00| 日記