「人間は考えるFになる」 土屋賢二 X 森博嗣 講談社 2004年
きれいになったね p35〜
「森 お茶の水女子大学の新入生って、何人くらいですか?
土屋 えーと。…知らないものをいくら考えても答えは出ませんよね(笑)。たぶん一学年五百人くらいじゃないかと思うんですよ。規模は小さいんです。
森 先生の講義は何人くらい受けますか?
土屋 いろいろですね、二百人くらいのもありますし…。
森 やはり低学年の方が多いのですか?
土屋 そうですね。一般教養というか、概論のようなものですね。
森 大学院はいかがですか?
土屋 大学院となると、もの凄く少ないです。三、四人とか。森先生は、何コマくらい教えていらっしゃいますか?講義なんかも含めて。
森 前期の講義は、学部で一つです。
土屋 そんなものなんですか。
森 一年間で二講義です。実験がありますから、それを合わせて二つですね。実験は講義と実習がありますから実際は二つ分です。それから、大学院が一コマ。だからトータルで演習を除くと三コマですね。あと、他の学科になぜか力学を教えに行っています。
土屋 ところで最近の学生って、わりときれいになったとかんじませんか?
森 ああ、意外な発言でした。びっくりしました。
土屋 そうですか? おしゃれになったと思いません?
森 あ、そういうきれいさですか。
土屋 ええ、見かけの。え? 何? 森さんは別の意味にとったんですか? 心がきれいとか。
森 いや、僕は何も限定してませんよ。何も評価していませんし。
土屋 いやね、この辺って女子大がいくつかあるんですよ。で、昔はね、駅を降りると、どの子がうち(お茶大)の学生かというのが、非常によくわかったんです(笑)。
森 そういう質実な制服の学生もいますね。国立大学だからかな。
土屋 国立大学だからでしょうか。
森 うーん。どうでしょうね。
土屋 僕が、東大の学生だったときって、女子学生が非常に少なかったんですけど、その人たちはみんなきれいにしていましたね。で、ここに来ると、全く違った。
森 男性が少ないからだと?
土屋 そうじゃないかと思うんです。教師は男の中に入ってない。それが、最近は電車降りても見分けがつかないんですね。お茶大なのか私立なのか。拓殖大も近くなんですが、ときには拓大空手部と見分けがつかないことさえある(笑)。
森 あの、それは、土屋先生にとって良いことなのでしょうか?
土屋 拓大空手部と見分けがつかないことがじゃないですよね(笑)。きれいになったことなら、まあ…。
森 より良くなったと(笑)。
土屋 昔の教え子の柴門ふみに話したんですよ。きれいになったって話をね。そうしたらそれは努力しているからだって。今の学生はエステには行くし、化粧品も凄く高いものを使ってるし、カリスマ美容師にやってもらったりしてるから、昔と違って当然だって。でも、それだけの違いじゃないような気がする。
森 観察者である土屋先生の基準が変わった、という可能性はありませんか?
土屋 だんだん甘くなったとか(笑)。
森 そうは言ってませんけど(笑)。」
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知っているということ
「プラトンの哲学」 藤沢令夫 著 岩波新書 1998年
無知の知 p43〜
「あの神託の意味は、「ほんとうの知者は神だけ」であり、それに比べて「人間たちのうちで一番の知者とは、ソクラテスのように、自分が知に関しては何の値打ちもないと知った者なのだ」ということを教えようとしたに違いない。
これが、「無知の知」と言い方でよく知られている、「人間なみの知」とソクラテスが呼んだ知のあり方である。プラトンは、ソクラテスによるこの知のとらえ方こそ、「哲学」の確かな出発点であり、立脚点であると見とったに違いない。
すなわち、ー自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態につねに自分を置くことのたえざる習熟ー ということである。
自分がすでに知っていると思いこんでいる状態からは、知への欲求は発動しようがなく、知らないことを痛感してこそ、知りたいと希求することになるという平明な意味において、これは哲学つまり求知の不可欠の出発点に他ならない。あるいはまた、 ーほんとうに知っていることと、たんに知っていると思いこんでいることとを、あくまで厳格に区別しようとする構え
と言い換えることもできるだろう。つまりこの無知の構えとは、裏がえせば、「ほんとうに知っている」と言い切れるための条件、つまり「知る」ということの内実をほとんど限りなくきびしくとらえることー 特に「善美にかかわる重要時」についてはー を意味しているのである。
どのようにきびしくとらえるかというと、それはただ論理的整合性とか、認識論的に厳密理論への要請と行ったことではない。そううことも含むけれども、プラトンが理解したソクラテスの「知」のとらえ方のきびしさとは何よりも、「知」(知る)とはその人の行為の隅々まで支配する力をもつはずだ、そうでなければほんとうの「知」とはいえない、という「知」への要求のきびしさである。
例えば、あることがよいことだと「知って」いながら行わない、というようなことは。ソクラテスにとってもそもそもありえないことであった。それは要するに、ほんとうに「知って」いないのである。同様に、悪いことと「知って」(わかって)いるがやめられない、という言い方には、「知る」(わかる)ということのルーズなとらえ方に寄りかかった甘えがある。やめられないのは、ほんとうに「知って」(わかって)いないからだとソクラテスは指摘して、その甘えを禁止する。」
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無知の知 p43〜
「あの神託の意味は、「ほんとうの知者は神だけ」であり、それに比べて「人間たちのうちで一番の知者とは、ソクラテスのように、自分が知に関しては何の値打ちもないと知った者なのだ」ということを教えようとしたに違いない。
これが、「無知の知」と言い方でよく知られている、「人間なみの知」とソクラテスが呼んだ知のあり方である。プラトンは、ソクラテスによるこの知のとらえ方こそ、「哲学」の確かな出発点であり、立脚点であると見とったに違いない。
すなわち、ー自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態につねに自分を置くことのたえざる習熟ー ということである。
自分がすでに知っていると思いこんでいる状態からは、知への欲求は発動しようがなく、知らないことを痛感してこそ、知りたいと希求することになるという平明な意味において、これは哲学つまり求知の不可欠の出発点に他ならない。あるいはまた、 ーほんとうに知っていることと、たんに知っていると思いこんでいることとを、あくまで厳格に区別しようとする構え
と言い換えることもできるだろう。つまりこの無知の構えとは、裏がえせば、「ほんとうに知っている」と言い切れるための条件、つまり「知る」ということの内実をほとんど限りなくきびしくとらえることー 特に「善美にかかわる重要時」についてはー を意味しているのである。
どのようにきびしくとらえるかというと、それはただ論理的整合性とか、認識論的に厳密理論への要請と行ったことではない。そううことも含むけれども、プラトンが理解したソクラテスの「知」のとらえ方のきびしさとは何よりも、「知」(知る)とはその人の行為の隅々まで支配する力をもつはずだ、そうでなければほんとうの「知」とはいえない、という「知」への要求のきびしさである。
例えば、あることがよいことだと「知って」いながら行わない、というようなことは。ソクラテスにとってもそもそもありえないことであった。それは要するに、ほんとうに「知って」いないのである。同様に、悪いことと「知って」(わかって)いるがやめられない、という言い方には、「知る」(わかる)ということのルーズなとらえ方に寄りかかった甘えがある。やめられないのは、ほんとうに「知って」(わかって)いないからだとソクラテスは指摘して、その甘えを禁止する。」
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posted by Fukutake at 12:06| 日記