2022年10月18日

旅での「帰る」という気持ちの起点

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房

 旅の至点 p401〜

 「わたしたちの旅は、多くの場合ひとつの回帰をなしているのではないか。簡単に言えば、わが家を出て、またわが家に帰ってくるのである。これがもし地球に帰ってくることができなくなってしまった衛星船に乗ったままで、宇宙をどこまでも遠くに運ばれて行くのだとしたら、もう宇宙旅行などとは呼べないものになってしまうだろう。出発点にもどれる可能性が、どんな長旅にも前提されているのではないかと思う。わたしがいま興味をもつのは、そういう往復の入れかわる極点が、旅の場合、どこにあるかということである。これが毎日の規則的な往復とか、ある用事を果たすための行動なら、その分岐点は比較的はっきりしていると言えるだろう。目的を達するまでが行きで、目的が果たされてしまえば、方向は戻りになるからだ。しかしその目的が一義的に定めにくい場合だと、どこまでが行きで、どこからが帰りなのか、あまりはっきりしなくなってしまう。

 わたしは二、三年前に東まわりで、アメリカからヨーロッパをまわって、日本に帰ってきたのであるが、このような世界一周では、どこまでが行きで、どこからが帰りなのか、あまりはっきりしないことになる。むろんわたしの旅も、無目的の世界漫遊ではないのである。アメリカでは国際学会に出席する目的があったわけで、そのために約半月のアメリカ滞在が予定されていたのである。だから、それらの用事がすんで、ニューヨークからロンドン行の飛行機に乗ったときに、わたしはもう帰路についたことになるわけである。しかしわたしの実感は、日本へ帰るという感じではなくて、やはりヨーロッパへ行くという気持ちであった。ニューヨークの飛行場で、急に一便くり上げられて、早い出発の飛行機に乗り込んだまではよかったけれども、荷物は後の便に積みこまれてあったので、ロンドンの飛行場で、やはり後の飛行機が到着するのを待たなければならなかった。同じ憂き目にあったイギリス人の老夫婦と、少しばかり言葉をかわしたりしながら、税関にへだてられた飛行場の待合室のなかを歩きまわって考えたことは、行く手にはこのような面倒が、まだいろいろあるのではないかという不安であった。まだまだ行かなければならないところがたくさんあるのだから、とても今から帰るという気持ちはなかったのである。

 いよいよ帰るということがはっきりしたのは、それから一ヶ月半ばかりたって、アテネから東京行きの飛行機に乗った時ということになるかも知れない。つまりアメリカの学会に出席するというのが、旅行の一つの目的だったには違いないのであるが、ヨーロッパ見物も、またもう一つの目的だったと言わなければならない。だから、ギリシャでの半月ばかりの滞在が終わって、いよいよ日本に帰ることになった時が、わたしの帰路のはじまりだということになる。これなら、わかりきった話であって、何も面倒な文句をならべる必要はないと言われそうである。

 ところが、話はそう簡単にはならないのである。というのは、ギリシャへはローマから飛行機で行ったわけであるが、それはニューヨークからロンドンへ向った時と同じような、「行き」の意味だったとは言えないようなところがあるからだ。そこには何か既に「帰路」の感じがふくまれていたように思うのである。ギリシャがすめば、もう日本に帰るのだという感じである。そしてそのような感じは、いったいどこから始まったのだろうかと、旅行を逆にさかのぼって考えてみると、いろいろな疑問が出てくるのである。

 冬至の太陽は、わたしたちからもっとも南に遠ざかっているように見える。むかしの天文観測が考え出した太陽の運動は、いわゆる黄道の円を描くわけであろう。そして、その極点が冬至や夏至の至点をなしていて、太陽はそこで往復の方向を変えるようにも見られる。むかしのギリシャ人は、そのような「向き」の変化を示す名前を、そこにつかっている。「トロペー」というのである。わたしが日本を出発して、また日本に帰って来るとき、その運動の軌跡は、どこでそのような至点に到達したのだろうか。…

 わたしの帰路は、この「はるばる遠くまで来た」と感ずる、一種のノスタルジアを起点とするものではなかったかと思うのである。わたしはイギリスやスコットランドを少しばかり見てまわって、それからドイツ、トーストリア、フランスを経て、ジュネーブにつき、モンブランを見物したのである。そしてこのシャモニーの夕日が山々をそめ、ぼんやりあたりを眺めているとき、何か遠くへ来てしまったと感ずる気持ち感じたときを至点として、あとのイタリア、ギリシャの旅は、帰路の方向を取ったことになる。旅というものには、このような往復の分岐点が含まれているのではないか。」

初出 『旅』一九六七(四二)年十二月

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碩学の内省おそるべし。

posted by Fukutake at 07:48| 日記

外交とはエゴのぶつかり合い

「宮ア市定全集 18 アジア史」 岩波書店

日本の富国強兵 p412〜

 「(明治維新後)日本が最初に感じたのは、燐邦はいずれもアジア人であるという同類意識であった。したがってもっとも強く望んだことは、かれらが一日も早くいわゆる近代化への道を進んでくれることであった。ところが日本ではほとんど自明の理と思われることがなかなか理解されないのである。そのもどかしさからついに日本は日本で独自の道を歩むように変わってきたのであった。その最大の山場が日清戦役であり、つぎが日露戦争である。

 二つの戦争をくらべてみると、日本にとってもっとも危険な賭けは、日清戦役の方にあった。なんとなれば、当時の日本は外交的にも孤立していて、ただの一国も友好国をもたなかったからである。ところがいざ開戦してみると、清国はあまりにもろくて、日本の方が驚いたくらいであった。そいてこれが結局、日本の為にならなかった。日本はますます近代化に自信をもって富国強兵の速度を早め、一方近代の格差が広がるとともに、日本はアジアの一国であることを忘れて、準白人待遇を望むようになったからである。この傾向はつぎの日露戦争によっていっそう助長されることになった。

 日露戦争はいちおう計算された上にたっての戦争であった。外交的には日英同盟という足場があり、アメリカも同情的であった。いざ始めてみると軍費の多くかかるのに驚いた。それを外国からの借金でまかなったが、この金を貸したからにはイギリスやアメリカは、回収不能になるほど日本が負けるのを傍観するはずがなかった。しかし同時に日本があまり強大になるのも好まなかった。したがって日本の当局者にとっては、どんな潮目に講和したらよいかが、最大の思案のしどころであった。見方によってはこの戦争は始めから終わりまでイギリスに指導されイギリスの利益に奉仕させられた戦争であったかもしれなかった。中国において最大の権益を有したイギリスの勢力範囲が、これによってますます安泰さを加えたほか、この間イギリスはチベットに遠征軍を送り、この地を保護下においたのであった。ロシアの南下は清朝にとってもはなはだ危険な事態であり、日露戦争の勝敗いかんによっては、清朝はイギリスの援助と干渉を求めなくてはならないかもしれないという状況下にあって、清朝はチベットに関して強くイギリスを非難できない弱みを握られていたのである。

 日英同盟はいわば主人と従僕の間のような同盟であったが、従僕は従僕なりに利益の落ちこぼれをいただいているうちに、それだけではつまらないと悟り、独立したいと考えるようになったから、事は面倒になった。日露戦後、南満州鉄道の経営に乗り出そうとしたアメリカの提案を一蹴してから、急に日米関係が冷却した。日本はアメリカを警戒して、ロシアとの間で満州を二分して、おのおのの勢力範囲を認めあう了解で和睦したのである。

 日本は従来戦争のために軍備を備える際、その軍艦はもっぱらイギリスから買い入れた。日本海軍の勝利は同時にイギリス造船技術の勝利を意味した。ところが日本にもある程度の重工業が起ると、政府は国産の軍艦を用い、イギリスに発注しなくなった。これがイギリスを怒らせる結果になった。…」

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あくまで、英米の利益が根底にあった。

posted by Fukutake at 07:43| 日記