2022年10月17日

女性名詞の謎

「言語が違えば、世界が違って見えるわけ」 ガイ・ドイッチャー 椋田直子訳 ハヤカワ文庫 2022年

女性名詞 p332〜

 「ヨーロッパ諸言語が人間ー とくに、片方の性だけー にまちがったジェンダーを付与するのは、ジェンダー体系のもっとも厭わしい特徴といえるかもしれない。しかし関与する名詞の数からすれば、些末な特徴といえよう。本当のらんちき騒ぎが行われているのは無生物の領域である。フランス語、ドイツ語、ロシア語をはじめ大半のヨーロッパ諸言語では男性と女性のジェンダー分類が、どう想像力を働かせようと男らしくも女らしくもない何千もの対象物に及んでいる。たとえば、フランス人の髭(la barbe)のどこが女性らしいだろう。ロシアの水はなぜ「彼女」で、沸かしてティーバッグを入れるとなぜ「彼」になるのだろう。

 ドイツ語の女性名詞である太陽(die Sonne)が男性名詞である日(der Tag)を照らし、男性名詞の月(der Mond)が女性名詞の夜(die Nacht)を照らすのはなぜだろう。フランス語では彼(le jour:日)が彼(le soleil:太陽)に照らされ、彼女(la nuit:夜)が彼女(la lune:月)に照らされているというのに。ドイツのカトラリーには三つのジェンダーが勢揃いしている。das Messer(ナイフ)は中性なのは残念だが、皿の反対側にはきらきらと男らしいスプーン(der Loffel)が置かれ、隣にはセックスアピール満点の女らしいフォーク(die Gabel)が寄り添う。ところがスペイン語になると、胸毛と低音が男らしいのはフォーク(el tenedor)、曲線美が女らしいのはスプーン(la cuchara)なのだ。

 英語を母語とする者から見ると、無生物を奔放に男女分けする一方でときに人間を中性扱いするやり方は、いらだちの種であると同時に笑いを誘う。マーク・トウェインの有名なエッセイ「ひどいドイツ語」では、一貫性のないジェンダー体系がやり玉に挙がっている。

  ドイツ語ではカブにさえある性別が、若いお嬢さんにはない。カブには神経質なまでに敬意を払うくせに、お嬢さんには平気で無礼を働く。活字にするとどう見えるか、ひとつ紹介しようー つぎの文章は、ドイツの日曜学校で使われる優秀な教材のひとつから、会話の例を筆者が翻訳したものである。

   グレートヒェン ー カブはどこですか。
   ヴィルヘルム  ー 彼女は台所に行きました。
   グレートヒェン ー あの美しく教養ある英国の娘さんはどこですか。
   ヴィルヘルム  ー 「それ」はオペラに行きました。

 困るのは、ドイツ人にとってこれがおかしくもなんともない、ということだ。
 トウェインは、ドイツ語のジェンダー体系にはとくに堕落したところがあり、あらゆる言語のなかで異常かつ不合理だ、と考えていた。しかしこれは事実を知らないからこそいえることだった。なぜならば、不合理なジェンダー体系をもたないという意味で、異常なのは英語のほうだからである。」

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posted by Fukutake at 08:58| 日記

ラディカル=絶叫

「今日の政治的関心」 田中美知太郎 文藝春秋 昭和六十一年

 当時の特殊方言、または「絶叫」 p205〜

 「ラディカルであること、純粋であること、道義的であることは、主観性としては割りに容易なことだと言える。一面性だけを徹底させればいいからだ。しかもこれらはいずれも形容に過ぎないのだから、形容詞はいくらでも比較級をつけることができるわけで、ラディカルにも、道義性にも「ウルトラ」が、後からいくらでも出てくることができるのだ。不断に「よりラディカル」な立場で、他を裁くということも比較的容易であり、心理的にも爽快なことだとも考えられる。かくて、昨日までの進歩派やリベラルがきびしく裁かれ、葬られてしまう。「研究も革命も」というような二股をかけている者、制度内改革で問題を解決しようとする者は、その不純と不徹底を糾弾されなければならない。

 「当代の学生や若手研究者が自分の将来に保障されている体制内での上昇の展望を前提として闘う限り、闘争は個別改良逃走として枠づけされ、発展はあり得ない。かかる展望を拒否して、全人民的立場に自己を変革したときはじめて闘争は普遍的歴史的意味をもちう流」

という立場は、例の「自己改革」と「人民」の考えにもとづいて、体制内の個別的改良を拒否することを主張している。これは入試問題についての、

 「いったい受験生は、何を目的とし、いかなる立場で東大に入ろうとするのか、もしも真に学問をのぞむのであれば、東大の教授は教育者の資格も、研究者の誠実さも落ち合わせていないことを知るべきである。もしもよりよき就職をねがうならば、それまた東大闘争の弾劾の対象であるがゆえに、われわれは、そういった諸君の入学を阻止する道義性をそなえている」
という主張と、一種の形式論理的な一貫性をもってつながっていると言わなければならない。形式論理は一面性を徹底させる道具として有効性をもってつながっている。これを要約すると、

 「東大闘争はこのような腐敗の中にある秩序と、その背後で行われている大学の帝国主義的再編と、それみずから担っている東大当局および国大協路線に対する闘いであった。それは単なる制度的な大学の改革ではなく、学生参加を要求するといった改良的物取り闘争でもなく、将来の教授や医者としてある現在の研究者の職人的利害の追求でもない。大学内に表出した矛盾に対する闘いを通して社会変革を展望した闘争であり、その闘いを担ってゆく実体を、闘争参加者一人一人が自己変革をとげつつ形成していく闘争である。なぜならば、大学が文部行政機構の末端に位置づけられた存在として権力機構に包摂されている限り、大学内の改良は完結し得ないし、また現在、大学の矛盾は、帝国主義社会の矛盾の表出でしかないが故に、原則的であろうとするならば、闘争は全社会的に深化発展さざるを得ないからである」

というようなことになる。もう別に新しく注意しなければならないことはないだろう。大学において全社会と対立する徹底的な闘争が行われなければならないとすれば、それ以外のことはすべて「ナンセンス」であるということであろう。」
(「中央公論」 1969・4)

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何を言っているのかわからない絶叫。わかったところで何になるのか。
posted by Fukutake at 08:53| 日記