2022年10月14日

言語=実体

「数学幻視行」ー誰もみたことのないダイスの七の目ー 小島寛之 新評論 一九九四年

数学の価値 p109〜

 「ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』において、「世界」を規定しました。
 「世界とは、その場に起こりうるすべてである」「世界と生とは一つである」「論理的空間の中にある事実が、すなわち世界である。」「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」「私とは私の世界のことである」

 以上は、『論考』からの抜粋です。ただし、ここで言う「事実」とは客観的な事実ではなく、「私に降りかかってくるもののことです。またある意味では主観でもありません。「私」は「世界」をその外から眺望しているわけではなく、「私」は「世界」そのものなので、「目が目自体を見ない」のと同じく、「私」は「世界」を見ないのです。

 さらにはウィトゲンシュタインは「言語」と「世界」の間に1対1写像をつけ、それによって「言語」を規定しています。ここでいう「言語」は、いわゆる音声言語のことではなく、認識一般のことでしかも論理空間における自然科学的命題に限定しています。

 以上を乱暴にまとめると、「世界」=「私の生」=「言語」ということになります。「世界」とはいわば極大集合の如きもので、複素数がもはや代数拡大体を生み出さないように、その言語的外延を持たないのです。「私」の生きていない世界(いなかった時代)、という反証をつきつけるのは無駄です。もし「私」がそれについて何か知っているとすれば、それは「私の世界」において「私の言語」で知っていることになります。繰り返しますが、世界のあらゆる事実は「私の内側」のできごとであり、私そのものであるのです。とすれば数学もまた、論理空間の命題として私の内に存在し私の一部を成していることになります。だから「数学の価値」を問うことは「私の価値」を問うことと同値なのです。同様のことをウィトゲンシュタインは以下の形で表明しています。

 「世界の価値は世界の外側になければならない。世界の中ではすべてはあるがままにある。そしてすべては起こるがままに起こる。世界の中には、いかなる価値もない。仮にあるとしても。その価値にはいかなる価値もない。

 このようにウィトゲンシュタインは、「価値」などというものを形而上学としてしりぞけてしまいました。それはあまりに有名な結語「語らりえぬことについては、沈黙せねばならない」に結晶しています。」

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posted by Fukutake at 08:08| 日記

漱石と寄席怪談

「増補 漱石と落語」 水川隆夫 平凡社ライブラリー 2000年

超自然F p172〜

 「「漾虚集」の中の「幻影の盾」「琴のそら音」「一夜」「薤露行」「趣味の遺伝」の諸作品には、霊の感応・一目惚れ・恋愛感情の遺伝などの神秘的・超自然的な恋愛が何らかの形で扱われている。漱石は、「文学論」で、超自然形の物体が文学の材料として用いられる場合を超自然Fと名づけて考察している。超自然Fとして、宗教的信仰的材料の他、幽霊・妖婆・変化・妖怪等を挙げ、科学が発達した現在においても浪漫派の作家が好んでこの種の材料を使用するのは、決して架空の妄説を信じさせようとするのではなく、強烈な情緒を読者の心中に喚起するための手段に外ならないと述べている。漱石の超自然的なものへの趣味を養い育てたものは、幼少の頃からの寄席で聞きつづけた怪談噺であろう。ウオッツ・ダントンの『エイルウィン』などに対する興味も、その素地に怪談噺への興味があったればこそ強く喚起されたのである。「琴のそら音」及び「趣味の遺伝」には、特に怪談噺の投影が濃い。

 「琴のそら音」では、就職して間もない「余」が、久しぶりに親友の津田君を訪問し、近況を報告する。余には許婚(いいなずけ)があるが、余の雇っている旧弊な婆さんは、伝通院の和尚に占ってもらった結果や野良犬の遠吠えの様子から不吉な前兆を感じ、インフルエンザにかかっている許婚に万一のことがないかと心配している。この話を聞いた津田君は、「まるで林家正三の怪談」のような不思議な話をする。それは、日露戦争に出征中の夫が、ある朝鏡を見ると、青白い細君の病気にやつれた姿がスーとあらわれた。後で調べてみると、細君が息を引き取ったのと夫が鏡を眺めたのは同日同刻であった。細君の出生前の誓い通り、魂魄だけは夫の傍へ行ったのである。魂魄だけが愛する者の傍へ行くという話は怪談によく出てくるが、漱石の度々聞いた円朝の「真景累ヶ淵」でも、死んだ豊志賀の魂魄が新吉の行くところにあらわれ、つきまとう。

 さて、津田君の下宿を出て、家へ向かう余は、不吉なきざしを思わせるものに次々と出会う。時の鐘。乳飲児の棺桶をかついで行く二人の男。怪談
の舞台装置にふさわしいものばかりである。

  「茗荷谷の坂の途中に当る位な所に赤い鮮かな火が見える。(中略)。其火がゆらりゆらりと盆灯籠の秋風に揺られる具合に動いた。(中略)。是は提灯の火に相違ないと漸く判断した時それが不意と消えて仕舞ふ。
   此火を見た時、余ははっと露子の事を思ひ出した。露子は余が未来の細君の名である。…」

 このあたり、「怪談牡丹灯籠」を頭においていることは、許婚の名をわざわざ「露子」としていることでも明らかである。…」

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posted by Fukutake at 08:02| 日記