2022年10月11日

死の潮時を知る

「汝自身を知れ ー古代ギリシャの知恵と人間理解ー」 三嶋輝夫  2005年

クセノフォン『ソクラテスの弁明』 p408〜

 「クセノフォンは、まず執筆の動機に触れて、すでに他の著者たちもソクラテス裁判を主題とする作品を書いてはいるものの、ソクラテスの挑発的とも言える発言の真因についての解明が不十分であることを指摘します。

    「ソクラテスについてのその記憶を記録にとどめ、かれが裁判に呼び出されたとき、弁明ならびに人生の終わり方についてどのように思索したかについて記すことは、価値のあることと私には思われる。たしかに、そのことについては他の人びともまたすでに書いているし、そのすべての者がかれの高言に触れている。そのことからして、ソクラテスによって実際にそのように語られたことは明らかである。しかし、もはや死のほうが生より自分にとって望ましいものであるとかれが考えていたという事実、そのことを他の人々は十分に説き明かしてはいない。その結果、かれの高言は、いささか思慮に欠けたものであるかのように見えるのである」

 では、そういうクセノフォン自身は、「高言」(大口を叩く)という意味での、原因がどこにあると考えているのでしょう。彼によれば、ソクラテス自身がもう「死にどき」と考えていたのが最大の原因とされます。クセノフォンは裁判の前に交わされたヘルモゲネスという生真面目な青年とソクラテスとの対話を紹介していますが、そのなかでソクラテスに次のように語らせています。

     「神様にもぼくがもう生を終えたほうがよいと思われるということを、はたしてきみはびっくりするようなことだと思うかね。今にいたるまで、ぼくは誰に対しても、その人がぼくよりも善く生きたということは認めたことがないということをきみは知らないのかね。というのもまさにこのこと、つまり自分が全人生にわたって敬虔に正しく生きてきたことを自覚しているということこそ、いちばん心楽しいことだからだ。だから、ぼくは自分自身に賞賛の念を強く抱いているし、このぼくと一緒にいる仲間たちもまた、ぼくについて同じ思いを抱いているのを見いだすのだ」…

 これほどまでにソクラテスが死を歓迎するのはどういうわけでしょう。その秘密は、「老い」にあります。ソクラテスは先ほどの言葉に続けて、次のように語ります。

      「ところが、これからもっと年を重ねて高齢になるならば、老年につきものの厄介をすべて背追い込むことになって、目も悪くなれば、耳も遠くなり、理解力も落ちれば、習ったことも忘れやすくなるのは必然だということが、ぼくには分かっているのだ。だが前よりも衰えた自分に気づき、ぼく自身を責めることになれば、どうしてぼくはーとかれは言ったそうであるがーこれからも心楽しく生きていくことができるだろう。実際、おそらくーとかれは言ったそうであるー神様もまた、ご好意からぼくのために、ちょうどよい年齢で生を終えるように取りはからってくださっているだけでなく、また最も楽に終えることができるように取りはからってくださっているのだろう」」

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老化現象を徐々に感じていくより、来る醜い老いを避けるために死刑を望んだんだろう。三島由紀夫に思いが至る。
posted by Fukutake at 08:39| 日記

源実朝の歌

「歌枕をたずねて」 馬場あき子 角川選書 1981年

実朝 p198〜

 「実朝が生涯にはたした旅といえば、何度かの二所詣(にしょもうで)、つまり箱根権現と伊豆走湯権現への参詣、ただそれだけであった。

   箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ

   大海のいそもとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

 この有名な二首もまた、そうした数少ない二所詣の時の歌である。詞書(ことばがき)によれば、「箱根の山をうち出て見れば波のよる小島あり。供のものに此うらの名はしるやとたづねしかば伊豆のうみとなむ申すと答侍りしをききて」とある。

 鎌倉をしばし逃れるように箱根権現への険路を歩んだ実朝は、芦の湖の波音と杉木立の風韻に耳を傾けながら、伊豆へ下るべく馬をすすめたのであろうか。ぱっと広がる海の明るさに大きく息をついているような歌である。この歌が生まれたのは箱根峠を伊豆へ下る途中の鞍掛山であるといわれ、いまのこの頂に歌碑が刻まれている。

 実朝が凶剣に倒れる一年前、その最後となった二所詣に進発したのは建保六年*二月十四日であった。ほぼ数日を要するのが常であったこの旅は、またなぜか一月から二月にかけて行われるのが例になっており、新旧の暦の差はあったとしても、海抜千メートルを越える箱根路は、まだ早すぎる春の風が冷たかったことであろう。

 いま、私の目前にある夕景の海も、じつに美しい刻々の色彩の変化の中に息づいている。大島、初島はほの紫の夕靄の中に浮かび、漂う雲はしだいに光をやわらげてばら色を深め、まっかな鞠のような夕日が山の端に落ちようとしていた。残雪を装う山々は、その襞々に夕べの安らぎをたたえはじめている。

 実朝のみた海は、少なくともこのような夕暮れの景ではなかったろうが、視界は広く明るかったにちがいない。ただ、しかし、この叙景の歌は、戦中の小林秀雄の指摘以来、近年では吉本隆明の『源実朝』によって定着したように、決して明るい歌とは言い切れないものをもっているといえる。一見、綿密に言いとげようとしたかにみえるその描写は、まるで透明な無私の器のように、読者の把握しているさまざまな状況のままに、どのような推理も吸収してしまうものをもっているといえるだろう。吉本隆明風にいえば、なるほどこの歌なども、外戚北条氏に操られた虚名の将軍の、無為の日常の中で、必ず来るであろう不吉な死を、静かにみつめていた目と同じ目によってみつめられた叙景の歌だということになろう。」

建保六年* 一二一八年
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posted by Fukutake at 08:36| 日記