2022年10月10日

「天皇」の起源

「宮ア市定全集 21」ー日本古代ー 岩波書店 1993年

天王から天皇へー p302〜

 「もし日本に天王制が行われたとすれば、それは雄略天皇の前後、いわゆる倭の五王のころからであろう。 そしてそれが天皇制へ移行したのは、やはり従前も唱えられたように聖徳太子摂政の推古天皇の時代からであろうと思われる。

 日本が百済に対して優越感を満足させるには、天王でよかった。 ところが大陸に隋という統一王朝が出現し、日本も否応なくこれと国交を開かなければならなくなると、天王ではまずいことになった。 天王と皇帝では、僅かの差とは言え、対等でないからである。 あたかもよし、中国には古来、皇帝号に対してひけを取らない天皇という言葉があった。 そこで天王の王を皇と改めて、天皇とし、これに伴って諸制度を皇帝政府と平等化して行ったのは極めて自然な推移と言える。

 従来の学説は、天皇の前に大王を想定したため、両者の間に脈絡を見出すことができない。 そこでひたすら天皇の意義を考えて、中国にその源流を探り、天皇氏の天皇はあまりにも悠久な古代なので、津田左右吉博士、及びその後の学者たちは多く道教諸神の名号の中から天皇を見出そうとした。 しかしながら道教思想でこれを説明するには、その前提として日本に道教、もしくは道教的な習俗が、よほど広く且つ深く行われていなければならぬが、果たしてそんなことが起こり得たであろうか。 一国の主権者の称号を定めるということは、国家的な大事件であるが、後世仏教の採否を巡って朝廷の分裂まで惹起したくらいであるが、道教的な神名を意識して採用することに対して、何も反対が起こらなかったであろうか。

 もし私のように、天王号が既に確立していたと仮定するならば、これを皇に改めることに対して反対の起こりようがない。 隋に対する日本の国書に、もしも、
       東天王敬白西皇帝
と書いたのでは、もちろん両者対等とは言えない。 しかも果たしてこの形式で無事受け付けられるかどうかも心もとない。 どうせ相手が納得できぬならば、初めからこちらでも覚悟し、全く対等になるような表現を用いよう。 幸いに天皇という言葉が、確かに中国の古典にも用いられている。 そこで天王の代りに天皇、とは誰しもが自然に思い付く結論ではないだろうか。

 私は以前から、天皇の皇字が何故にオウ音で読まれるかについて疑問を抱き続けて来た。言うまでもなく、皇の呉音はオウである。 ところが他の場合において、皇字は殆どの場合、漢音コウ(クワウ)で読まれるのである。 私は天皇の背後には天王があったという歴史的な因縁によって解決できるのではないかと思う。 すなわち昨日まで天王(テンノー)であったところ、今日から天皇になっても、呼びなれた名称は容易にかえられるものではない。 しかも皇にはちゃんとオー音もあるのであるから、天皇は依然としてテンノーであり得た。 後に漢音が専ら用いられるようになっても、遂に昔のままの発音で押し通せたのである。」

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posted by Fukutake at 09:33| 日記

素朴な疑問

「また、つかぬことをうかがいますが…」 ニュー・サイエンティスト編集部編 金子浩 訳 ハヤカワ文庫


設計ミス p81〜

 「質問 庭仕事をしていたとき、横を通り過ぎようとしていたカブトムシが、つまずいてあお向けになってしまいました。 わたしが手を貸さなければ、ずっとあのままで、おそらく死んでいたでしょう。 なぜカブトムシは、何百万年もかかって進化するあいだに、あの基本的な、それも命にかかわる恐れのある設計ミスのモデルチェンジをしなかったのでしょうか?

答え 転んで起きあがれなくなったそのカブトムシは健康でなかったのかもしれません。 年をとるか、弱る病気にかかったせいで死にかけていたと考えるほうが自然です。 甲虫類は死期が近づくと、機敏さや調整機能が大幅に低下し、歩行がきわめて不安定になります。 そんな甲虫が硬くて平らなところにいると、簡単にひっくりかえって起きあがれなくなるのです。


 わたしは、そのような状態になっているさまざまな甲虫類を、数えきれないほどたくさん見ています。 なにしろ、アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキー近郊で育ったもので、そこにはヨーロッパからアメリカに入ってきたオサムシ(カラブス・ネモラリス)がたくさん生息していました。 歩道でひっくりかえっているオサムシをしょっちゅう見かけたものですが、何回起きあがっても、オサムシはすぐにまた裏返って、やがて死んでしまうのです。 草が生えているところから歩道へよろめき出て、そこでひっくりかえってしまうオサムシも見かけました。 そういうオサムシは、足を下にして ー それもわざわざ草地のなかに ー 置いてやっても、よろよろ歩きまわったあげく歩道へ出て、けっきょくまたひっくりかえってしまうのです。

 設計ミスのように思えるのは、死にかけた甲虫類が、自然のなかではまずありえない、つるつるした硬い表面と出くわしたからなのでしょう。 あらゆる生物の約五分の一が甲虫類で、ほとんどんすべてのニッチ(生態的地位)と生息環境を占めていることを考えると、甲虫類の設計は、むしろきわめて優秀だといえるのではないでしょうか。」

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夏の終わりのセミもひっくりかえっていますね。
posted by Fukutake at 09:28| 日記