「ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?」ー脳化社会の生き方ー 養老孟司 扶養社新書 2019年
お墓にもっていけるもの p194〜
「皆さんストレスという言葉をご存知だと思いますが、この言葉は実はハンス・セリエというオーストリアの医学者がつくりました。 この人のお父さんはオーストリアの貴族でした。 第一次世界大戦で、ご存知のようにオーストリア・ハンガリー帝国というのが分解してしまいます。 そしてセリエのお父さんは先祖代々持っていた財産を失います。 それで亡くなるときに、息子に言う。 それが、財産とは自分の身についたものだ、ということなんです。お金でもなし、先祖代々土地を持っていたって、そういうことがあれば結局なくなってしまう。 たけれども、もし財産と思えるものがあるとすれば、それは墓に持っていけるものだと。
お墓に持っていけるものというのは自分の身についたものです。 家も持っていけません。 土地も持っていけません。 お金も持っていけないですが、自分の身についた技術は墓に持っていける。 だからそれが財産だと。
そういうふうな非常に強い社会的変化を受けて生きてきた人は、みんな同じことを言うみたいで、考えてみるとうちの母もそうなんですね。 戦争を経験していますし、関東大震災も通っていますし、そういうところを通っていますと、やはり財産というのは身に付いたものと考えるようです。 今の若い人はよくお金のことを言うんですが、そうじゃなくて自分の身に付いたものだというのは、極端な状況を通らないとなかなか悟らないことです。 セリエのお父さんが墓に持っていけるのが自分の財産であると言っていたように、やはり身に付いたものが財産であると。
現代の状況を見ていますと、若い方は全然違うことを考えているような気がしないでもないですね。 僕は大学に長いこといましたから、率直に申し上げますが、例えば大学で中堅どころ、二十代、三十代の人が何を考えているかというと、いかにして自分のポジション、社会的な位置を確保するかということをいつも考えています。 これは気の毒だなと思っていました。
私のころは、そんなことは考えませんでした。 解剖をやったのはなぜかといいますと、医学部を出て解剖なんかやったら食えないよというのが世間の通り相場で、食えないところで何とか生き延びているんですから、それだけでありがたいと思っていたわけで、これ以上どうとかということを考えないで済んでいました。」
(「子どもと自然」(鎌倉愛育園にて講演))
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2022年10月04日
お墓へ持っていけるのは、記憶だけ
posted by Fukutake at 09:07| 日記
なぜ? どうして?
「「オーイ どこ行くの」ー夏彦の写真コラム 山本夏彦 新潮文庫 平成十四年
元凶は日教組と文部省 p352〜
「子供の意見は聞いてはならぬと言うと、子供がなぜと口をとがらすのはまだしも、親たちまで口をとがらす。 子供の意見は意見ではないと私が言っても承知しないならヘーゲルが言っていると書いたことがある。
お客さまがいらっしゃったら辞儀をせよと教えると、子は尊敬もしない人にどうしてと口答えする。 親たちは返す言葉がない。 こうしてあいさつは失われた。
この世の中の九割まではなん千年来の習慣で動いている。 そのすべてを心得た上の「なぜ」が本当の「なぜ」である。 それまでは、「従え」と幼いうちにしつければすむのに日教組は何事も「なぜ」と問うのがいいことだと教えた。 体制側を窮地に追いつめる作戦である。
そしたら遠足のあとで先生が作文を書かせようとすると、小学生はなぜ書かせる、口で言えばすむものをと騒いできかなくなった。 女子大生は小遣い銭を「体」で稼いで何が悪いの? 誰にも迷惑かけてないのにと怪しむようになった。
こういう子供に育てたのはほかでもない日教組であり、親たちであり、文部省なのだから、いまさらとがめることはできない。
お話変わってわが国の教育は外国語を大事にして国語を大事にしない。 外国語のスペルは一字まちがえても許さないのに、国語で綴る文なら久しく練習させない。 させてもお座なりである。
それでいて大学生に五十枚百枚の卒論を書かせる。 二枚三枚の綴方さえ書いたことがないものに、百枚は途方もない長編である。 誤字脱字は正せるからいいが、岩波用語もどきの文脈の混乱は正せない。 文部省は「卒論白書」を編集してひろく国民に示すがよい。
教育の根本は古典を教えることに尽きる。 文部省はつとにそれを放棄した。 卑近な例をあげると春の小川はさらさら流るをさらさら行くよに改めた、行くよとは何ぞ、流るは文語だから口語にしたのだそうだ、 前回のつつがなしや友垣も改めるだろう。
友人久世光彦は一葉女史の小説をテレビ化するに当たってテキストを読ませたら、その過半は読めなかったという。 近く鴎外も漱石も読めなくなる。 文部官僚の中心はすでに日教組育ちである。 だからこの小文も主旨分かるかどうか。」
(平成六年九月一日号)
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元凶は日教組と文部省 p352〜
「子供の意見は聞いてはならぬと言うと、子供がなぜと口をとがらすのはまだしも、親たちまで口をとがらす。 子供の意見は意見ではないと私が言っても承知しないならヘーゲルが言っていると書いたことがある。
お客さまがいらっしゃったら辞儀をせよと教えると、子は尊敬もしない人にどうしてと口答えする。 親たちは返す言葉がない。 こうしてあいさつは失われた。
この世の中の九割まではなん千年来の習慣で動いている。 そのすべてを心得た上の「なぜ」が本当の「なぜ」である。 それまでは、「従え」と幼いうちにしつければすむのに日教組は何事も「なぜ」と問うのがいいことだと教えた。 体制側を窮地に追いつめる作戦である。
そしたら遠足のあとで先生が作文を書かせようとすると、小学生はなぜ書かせる、口で言えばすむものをと騒いできかなくなった。 女子大生は小遣い銭を「体」で稼いで何が悪いの? 誰にも迷惑かけてないのにと怪しむようになった。
こういう子供に育てたのはほかでもない日教組であり、親たちであり、文部省なのだから、いまさらとがめることはできない。
お話変わってわが国の教育は外国語を大事にして国語を大事にしない。 外国語のスペルは一字まちがえても許さないのに、国語で綴る文なら久しく練習させない。 させてもお座なりである。
それでいて大学生に五十枚百枚の卒論を書かせる。 二枚三枚の綴方さえ書いたことがないものに、百枚は途方もない長編である。 誤字脱字は正せるからいいが、岩波用語もどきの文脈の混乱は正せない。 文部省は「卒論白書」を編集してひろく国民に示すがよい。
教育の根本は古典を教えることに尽きる。 文部省はつとにそれを放棄した。 卑近な例をあげると春の小川はさらさら流るをさらさら行くよに改めた、行くよとは何ぞ、流るは文語だから口語にしたのだそうだ、 前回のつつがなしや友垣も改めるだろう。
友人久世光彦は一葉女史の小説をテレビ化するに当たってテキストを読ませたら、その過半は読めなかったという。 近く鴎外も漱石も読めなくなる。 文部官僚の中心はすでに日教組育ちである。 だからこの小文も主旨分かるかどうか。」
(平成六年九月一日号)
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posted by Fukutake at 09:04| 日記