「汝みずからを笑え」 土屋賢二 文春文庫 2003年
取材を終えて p135〜
「雑誌の取材を終えわたしに助手がいった。
「顔色が悪いですよ、心配事でもあるんですか。 それとも仮病の練習をしているのですか」
「わたしがいつ仮病を使った。 少なくとも仮病だと立証されたことはない。 今、取材があったんだ」
「<へんな人特集>の取材ですか」
「それだったら、君に取材するはずだ。 『オリーブ』という雑誌だ。 君とは違って、まだ心が汚れていない若い女性が読む雑誌だ。 そこで哲学を紹介するというんだ」
「そんな無茶なことをして読者に悪影響はないんですか」
「もちろん心配だ。 読者だけでなく、雑誌も悪影響があるだろう。 それに、どうも哲学について悪いイメージを与えたような気がする。 それが心配だ」
「電話の取材だったら、少しはましなイメージをもってもらえたんじゃないんですか」
「どういう意味だ。 わたしのルックスが問題だというのか。 わたしが心配しているのはそういうことじゃない。 精一杯説明したつもりだが、どう理解されたかが問題なのだ」
「難しいことを話したんですか」
「しゃべったことはやさしい。 ただ、わたしとしては、一を聞いて十を知ってほしいのだ。 わたしは一しか知らないから。 それを編集で何倍にもふくらませてほしいと思っているのだが、インタビューした女性編集者は、そういうことは期待できそうにない顔をしていた。 とにかく、彼女がどれだけ実りのある話を聞いたかは、彼女の肩にかかっている」
「でも責任は、しゃべった先生にあるんじゃないんですか」
「インタビューは共同作業だ。 質問しなければわたしの発言もないのだ。 だから編集者にも責任の半分あある。 わたしが<哲学の探究はいつまでも続く>といったら、編集者は<一生続くんですか>と同情するようにいった。 <一生借金を返し続けるですか>とか<一生治らない病気なんですか>というのと同じ口調だった。 わたしを憐んで帰って行ったから、哲学に悪いイメージをもったに違いない」
「哲学を説明するのは難しいですから、先生には無理ですよ。 先生に取材したのが間違いだと思います」
「だから、雑誌に責任があるといったろう。 素人は困ったものだ。 哲学が何であるか、哲学の教師に聞けば分かると安易に考えている」
「でも、先生が神様だったとしても何を聞いても分からない、ということは、普通の人は知らないんじゃないでしょうか」
「ちょっと待て。 それは言い過ぎだろう。 神様を侮辱するのか」
「わたしが侮辱しているのは神様じゃなくて、先生だと思います…」
-----
イスラムの天国とは酒池肉林?
「イスラーム文化」ーその根底にあるものー 井筒俊彦著 岩波文庫
イスラーム的天国 p99〜
「西暦六二二年、ムハンマドはメッカを去ってメディナに移り、ここにイスラーム暦第一年が始まります。 メディナ期に入ったイスラームは、その性格を著しく変えまして、思いもかけなかったような方向に進み始めます。 いわゆるサラセン大帝国への道であります。 そしてそれに伴って、イスラームという宗教そのものもすっかり変貌します。
まず第一に、神自身がいままでとはまるで違った姿で現われてくる。いままでは神は主に否定的側面、暗い側面において人間の前にその姿を現わしておりました、いまお話いたしましたように、怒りの神、恐ろしい審判の日の主として。 メディナ期に入りますとー というより、メッカ期でも、だんだんメディナ期に近くなってくるとー この神が人間の目に慈悲と慈愛、恵の主として映り始めます。 信仰の深い人々、善人には、来世で天国の素晴らしい歓楽を与えるであろうことを神は約束します。 つまり終末論的な光景が感覚的に明るくなってくるのです。 それは、例えば次に引用する『コーラン』の一節が描く来世の歓楽に代表されるような、手放しの明るさです。 感覚的で、官能的で、しかもユーモラスなところもあって、イスラーム的な天国の描写としては傑作だと思います。 ちょっと読んでみましょう。
「しかし、誠実一筋に(現世を生きた)神の奴婢(しもべ)は(地獄の業火の罰を受ける性悪どもとは)違う。
そういう人たちだけは、あのおいしい食物を頂戴する、つまり種々様々な果物を。 高い名誉を授けられ、至福の楽園に入り、臥牀(ねだい)の上にみんなが互いに向かい合って坐れば、こんこんと湧き出る(天国の美酒の)泉から汲みたての盃が一座に廻り、白く清らかに澄んで、飲めばえも言えぬ心持ちよさ。 これは(現世の酒とは違って)飲んで頭がふらつくでもなし、酔っぱらったりする心配もない。
その上、側に侍る眼差しもいとしとやかな乙女たち。 眼(まなこ)ぱっちりした美人ぞろい。 身体(からだ)はまるで砂に隠れた(駝鳥の)卵さながらに(ほんのり黄色みを帯びた白さが美しい)。
やがてその男たち、かたみに向きなおって、いろいろと訊ね合う。
中の一人が口を切る、『わしに一人友人がおりましてな、口癖のようにこう言うておりました、「おい、君までがあんなことを(ムハンマドの説く死後の復活など)真にうけているのか。 わしらが死んで、塵と骨になってしまったあとで、そうなってからまた審判を受けるなんてことがあるものかね」と。』さらに語をついで、『まあ、みなさん、ちょっと見下ろしてごらんなされ』と言う。
見下ろせば、や、見える見える、(復活と審判を信じなかった)あの男が地獄の真中に落ちている。
『ああ、すんでのことで、お前のおかげでわしまで破滅するところだった。 主のお慈悲あったればこそ助かったが、さもなくば、わしも(お前同様、業火の責苦の中に)曳きずりこまれるところだった。』(三七章、三九ー五五節)」とあります。
---
イスラーム的天国 p99〜
「西暦六二二年、ムハンマドはメッカを去ってメディナに移り、ここにイスラーム暦第一年が始まります。 メディナ期に入ったイスラームは、その性格を著しく変えまして、思いもかけなかったような方向に進み始めます。 いわゆるサラセン大帝国への道であります。 そしてそれに伴って、イスラームという宗教そのものもすっかり変貌します。
まず第一に、神自身がいままでとはまるで違った姿で現われてくる。いままでは神は主に否定的側面、暗い側面において人間の前にその姿を現わしておりました、いまお話いたしましたように、怒りの神、恐ろしい審判の日の主として。 メディナ期に入りますとー というより、メッカ期でも、だんだんメディナ期に近くなってくるとー この神が人間の目に慈悲と慈愛、恵の主として映り始めます。 信仰の深い人々、善人には、来世で天国の素晴らしい歓楽を与えるであろうことを神は約束します。 つまり終末論的な光景が感覚的に明るくなってくるのです。 それは、例えば次に引用する『コーラン』の一節が描く来世の歓楽に代表されるような、手放しの明るさです。 感覚的で、官能的で、しかもユーモラスなところもあって、イスラーム的な天国の描写としては傑作だと思います。 ちょっと読んでみましょう。
「しかし、誠実一筋に(現世を生きた)神の奴婢(しもべ)は(地獄の業火の罰を受ける性悪どもとは)違う。
そういう人たちだけは、あのおいしい食物を頂戴する、つまり種々様々な果物を。 高い名誉を授けられ、至福の楽園に入り、臥牀(ねだい)の上にみんなが互いに向かい合って坐れば、こんこんと湧き出る(天国の美酒の)泉から汲みたての盃が一座に廻り、白く清らかに澄んで、飲めばえも言えぬ心持ちよさ。 これは(現世の酒とは違って)飲んで頭がふらつくでもなし、酔っぱらったりする心配もない。
その上、側に侍る眼差しもいとしとやかな乙女たち。 眼(まなこ)ぱっちりした美人ぞろい。 身体(からだ)はまるで砂に隠れた(駝鳥の)卵さながらに(ほんのり黄色みを帯びた白さが美しい)。
やがてその男たち、かたみに向きなおって、いろいろと訊ね合う。
中の一人が口を切る、『わしに一人友人がおりましてな、口癖のようにこう言うておりました、「おい、君までがあんなことを(ムハンマドの説く死後の復活など)真にうけているのか。 わしらが死んで、塵と骨になってしまったあとで、そうなってからまた審判を受けるなんてことがあるものかね」と。』さらに語をついで、『まあ、みなさん、ちょっと見下ろしてごらんなされ』と言う。
見下ろせば、や、見える見える、(復活と審判を信じなかった)あの男が地獄の真中に落ちている。
『ああ、すんでのことで、お前のおかげでわしまで破滅するところだった。 主のお慈悲あったればこそ助かったが、さもなくば、わしも(お前同様、業火の責苦の中に)曳きずりこまれるところだった。』(三七章、三九ー五五節)」とあります。
---
posted by Fukutake at 08:36| 日記
2022年10月27日
王朝は滅びる
「宮ア市定全集 10」宋 岩波書店 1992年
南宋の滅亡 p93〜
「賈似道(かじどう)が理宗に用いられて廟堂に立ちたる当初の政治は、確かに大いに見る可きものがあった。 賈似道は宦官の専横を制し、外戚の跋扈を抑え、官吏の猟官運動を封じ、会計検査を厳重にして、軍事費の散漫支出を禁じた。 殊にとか蝟集する学生群の軽挙妄動するのを弾圧して、至る所に睨みをきかせ、兎角優柔なる理宗の親政の間、放漫に流れたる朝廷の紀綱を振粛した。 彼は又一方に人気取り政策として、朱子学者の埋もれたる学者を登用して朝廷に立たせ、彼等の無能なるに乗じて、実権を自己の手に掌握した。
彼の経済財政上に於いて試みたる公田の設置は注目に値する。 抑も南宋に於いて国家財政の最も重要なる支出は軍隊の給与であり、軍糧は租税の上納のみでは不足であったので、和糴(わてき)という方法により、民間より米を買い上ぐるのであるが、その支払いには多く会子*を以てし、之が会子濫発の止めんとして止まる能わざる原因であった。 仍(よ)って賈似道は和糴をせずして軍糧の供給に事欠かざるよう、臨安に近き浙西省の大地主の所有地を強制的に三割程を政府に買い上げて公田とし、その年貢米を以て軍隊に供給する計画を立てた。 公田の買収に当たっては相当民間に反対の声を聞いたが断乎として土地買上を強行し、三百五十万畝の公田を得て、両浙の和糴を罷めても困らぬ程度に至ったのを見ると、彼の才能が並々ではなかったことがわかる。
景亭五年理宗姐して子度宗(たくそう)嗣ぎ、賈似道の権力は益々加わり、魏国公に封ぜられ、平章軍国重事となり、居第を西湖の西葛嶺に賜り、十日毎に一朝覲するのみで、常に私邸に居って政務を決したので、恰も政府が葛嶺に移転したかの観があった。 而して都人も亦、辺報を聞くこと稀に、上下太平に慣れて安逸を貪り、湖山の勝槩(しょうがい)に四時遊楽して、歌舞沈酣、月日を忘るるの概があった。
而も宋人泰平の夢は忽ちにして、蒙古人の来襲によって打ち破られた。 先に忽必烈は征宋の役より帰ると、開平に於いて自立して定位につき、国を大元と号し、年号を中統と立て半ば中国式の政府を燕京に立てて大都となし、国内の整理緒につくや郝経(かくけい)を使として宋に派遣し、嘗て遼金が宋より得たる歳幣を獲んことを要求し來った。 賈似道はそれが都下の人心を動揺せしめんことを恐れて、郝経を真州に拘留したが、元の世祖忽必烈は愈々宋を平定せんと志し、宋への対北防衛禦線の要所、襄陽の攻撃を命じたのである。
南宋防禦線のヴェルダンたる襄陽は攻撃を受くること五年の後に陥落し、一角破れて全線亦保つ能わず、元将伯顔(ばやん)の軍は漢水を下りて揚子江に出て、揚子江に挟んで東下すれば、宋の内地は風を望んで降り、賈似道の率いたる船師も蕪湖付近に潰えて、元軍は宗都臨安に迫って無条件降伏を勧告した。
文天祥、張世傑、陸秀夫等は降伏を屑(いさぎよ)しとせず、文天祥は脱走して義兵を挙げたが、大厦の覆るは一木の支うる所に非ずして、何程の効果もなかった。張世傑は恭帝の兄弟を擁して軍船に乗りて海上に逃れたるも、克Rの戦いに破れて空しく南海の藻屑と消え去ったのであった(一二七九年)。」
会子* 北宋のころ大都市の金融業者が発行した約束手形。南宋に入り政府が発行し、濫発したため、価値を失った。
(『支那政治史』下巻、一九四一年七月)
----
南宋の滅亡 p93〜
「賈似道(かじどう)が理宗に用いられて廟堂に立ちたる当初の政治は、確かに大いに見る可きものがあった。 賈似道は宦官の専横を制し、外戚の跋扈を抑え、官吏の猟官運動を封じ、会計検査を厳重にして、軍事費の散漫支出を禁じた。 殊にとか蝟集する学生群の軽挙妄動するのを弾圧して、至る所に睨みをきかせ、兎角優柔なる理宗の親政の間、放漫に流れたる朝廷の紀綱を振粛した。 彼は又一方に人気取り政策として、朱子学者の埋もれたる学者を登用して朝廷に立たせ、彼等の無能なるに乗じて、実権を自己の手に掌握した。
彼の経済財政上に於いて試みたる公田の設置は注目に値する。 抑も南宋に於いて国家財政の最も重要なる支出は軍隊の給与であり、軍糧は租税の上納のみでは不足であったので、和糴(わてき)という方法により、民間より米を買い上ぐるのであるが、その支払いには多く会子*を以てし、之が会子濫発の止めんとして止まる能わざる原因であった。 仍(よ)って賈似道は和糴をせずして軍糧の供給に事欠かざるよう、臨安に近き浙西省の大地主の所有地を強制的に三割程を政府に買い上げて公田とし、その年貢米を以て軍隊に供給する計画を立てた。 公田の買収に当たっては相当民間に反対の声を聞いたが断乎として土地買上を強行し、三百五十万畝の公田を得て、両浙の和糴を罷めても困らぬ程度に至ったのを見ると、彼の才能が並々ではなかったことがわかる。
景亭五年理宗姐して子度宗(たくそう)嗣ぎ、賈似道の権力は益々加わり、魏国公に封ぜられ、平章軍国重事となり、居第を西湖の西葛嶺に賜り、十日毎に一朝覲するのみで、常に私邸に居って政務を決したので、恰も政府が葛嶺に移転したかの観があった。 而して都人も亦、辺報を聞くこと稀に、上下太平に慣れて安逸を貪り、湖山の勝槩(しょうがい)に四時遊楽して、歌舞沈酣、月日を忘るるの概があった。
而も宋人泰平の夢は忽ちにして、蒙古人の来襲によって打ち破られた。 先に忽必烈は征宋の役より帰ると、開平に於いて自立して定位につき、国を大元と号し、年号を中統と立て半ば中国式の政府を燕京に立てて大都となし、国内の整理緒につくや郝経(かくけい)を使として宋に派遣し、嘗て遼金が宋より得たる歳幣を獲んことを要求し來った。 賈似道はそれが都下の人心を動揺せしめんことを恐れて、郝経を真州に拘留したが、元の世祖忽必烈は愈々宋を平定せんと志し、宋への対北防衛禦線の要所、襄陽の攻撃を命じたのである。
南宋防禦線のヴェルダンたる襄陽は攻撃を受くること五年の後に陥落し、一角破れて全線亦保つ能わず、元将伯顔(ばやん)の軍は漢水を下りて揚子江に出て、揚子江に挟んで東下すれば、宋の内地は風を望んで降り、賈似道の率いたる船師も蕪湖付近に潰えて、元軍は宗都臨安に迫って無条件降伏を勧告した。
文天祥、張世傑、陸秀夫等は降伏を屑(いさぎよ)しとせず、文天祥は脱走して義兵を挙げたが、大厦の覆るは一木の支うる所に非ずして、何程の効果もなかった。張世傑は恭帝の兄弟を擁して軍船に乗りて海上に逃れたるも、克Rの戦いに破れて空しく南海の藻屑と消え去ったのであった(一二七九年)。」
会子* 北宋のころ大都市の金融業者が発行した約束手形。南宋に入り政府が発行し、濫発したため、価値を失った。
(『支那政治史』下巻、一九四一年七月)
----
posted by Fukutake at 14:04| 日記