「絞首台からのレポート」 ユリウス・フチーク著 栗栖 継 訳 岩波文庫
奇跡の看守 p142〜
「ある夜のことだった。私を監房に入れたSSの制服を着た看守は、見せかけのポケット検査しかおこなわなかった。
「どうです?」彼は低い声できくのだった。
「わかりません。あすは銃殺するといわれました」
「こわかったですか」
「覚悟していました」
彼は私の上衣の折り返しの部分を、しばらく機械的にまさぐっていた。
「やるかもしれませんね。あすでないとしても、もっとあとで。しかし、やらないかもしれません。でも、こういう時代ですから… 準備だけはしておくがいいです…」
それから彼はまた黙った。
「もしかひょっとて… だれかに何か伝えたいといったことはありませんか。 それとも、書きものをのこしたいようなことは? もちろん、現在のためではなく、未来のために。 あなたがどうしてここへはいるようになったか、誰かがあなたを裏切ったかどうか、人びとがどういうふるまいをしたか… あなたの知っていることが、あなたとともに消えてしまわないように…」
私が書きものをしたくないかって? まるで私の熱望してやまぬ願いごとを、ぴたっといい当てたようなものである。 彼はすぐに紙と鉛筆を持ってきた。 私はそれらをどんな検査を受けても見つからぬよう、入念に隠した。
しかし、私はそれらには一度も手をつけなかった。
あまりにもうまい話しなので、信じられなかったのである。 ここ、この暗黒の建物のなかで、検挙されてから数週間後に、どなったりなぐったりばかりする連中と同じ制服のなかに、私があとかたもなく消えてしまうようなことのないよう、あとから来る人たちのためにいうべきことを伝え、生きぬき、生きのびる人たちとせめてひとときなりと、話ができるようにと、私に助力の手をさしのべてくれる人間、友人を見出すことができるとは、あまりに話がうますぎるではないか。 しかも、ほかならぬこういう時に! 廊下では処刑される人たちの名が大声で呼ばれていたし、血に酔った者は乱暴にどなり、どなることのできない者は恐怖にのどをつまらせていたのである。
ほかならぬこういう時、こういう瞬間にー いや、信じられない。 こんなことが真実であるはずはない。 ワナにきまっている。 こういう状況のなかで、自分の方から進んで私に手をさしのべるという人間には、どれだけの力のいることだろう! どれだけの勇気がいることだろう!
約一月過ぎた。 戒厳令は解かれ、どなり声はあまり聞かれなくなり、過酷なときどきは思い出に変わりつつあった。 また夜で、私はまた尋問から帰り、同じ看守とふたたび監房の前に立っていた。
「助かったようですね。 うまくいきましたか」彼はさぐるように私を見つめるのだった。「何もかも?」
私にはその質問の意味がよくわかった。 私は深く感動した。 しかもそのことがほかの何事よりも、彼の誠実さを私に確信させたのである。 そうする権利を内部に持っている人間でないと、そういう質問はできるものではない。 そのときから私は、彼を信用するようになった。 彼はわれわれの側の人間だったのである。」
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この手記が残ったのは、二人のチェコ人看守の決死的な助力があった。
古きよき日本の面影
「宮本常一著作集 12 村の崩壊」 未来社
生活とことば p171〜
古きよきものの意味
「戦後の村々をあるくようになって、戦前にはないはつらつとしたものを方々で見た。まず、今の方がよい、戦争にまけてよかったという声である。何がよいのかといえば、農地解放がおこなわれて、みな自作になれたということである。土地が自分のものになった。その土地で何をつくろうと自分の勝手である。自分の思いのままの経営ができる。というのが多くの百姓たちの言い分であった。
それまで(戦前)に旅の途中で話をたのまれて、大ぜいの前に立つことがあったが、そういうとき、その集まりの中に何人かの人がひたいで物を見るような眼つきをしていた。それは、「おまえ、そんなことをいっているけれど、そんなことできるものではない」という不信と抵抗を示しているものであった。それはいつも私の心を暗くした。
ところが、戦後は方々で話をしてみても、そういう人はほとんどいなくなった。一応皆前向きになり、現下の状況を喜んでいるように見えた。しかし考えてみると、その人たちは七〇〜八〇歳の老人ではなく、若い者の方であった。
それでは老人たちはどう考えていただろうか。「今の方がはるかに暮らしよくなった」という老人にたくさん出あったのは秋田・長野・新潟・大阪・鳥取・熊本などであった。熊本を除いては小作争議の比較的多かったところのように思われる。
その反対に世の中が人情がうすれて暮らしにくくなったような気がするという声を多く聞いたのは、岩手・青森・石川・山梨などだった。老人たちの言い分はいろいろあった。 何も彼も現金取引だし、義理も人情もなくなった。強い者勝ちになった。人間一人一人が妙につめたくなってゆく、人情紙のごとし、にくまれ子が世にはびこる等々。今思い出してみても、世をなげいていた老人は少なくなかった。そういう人は「今のほうがよい」といっている地方にもいたのである。ただし私が話しあった多くの人たちを想いうかべての比重にもとづいての話である。…
ただ、見も知らぬ旅人の私を快くとめてくれたのは、いつの場合も「相見たがい」の思想であった。くだいて言えば持ちつ持たれつということである。「いつおまえの世話になるかもわからぬ、ならぬかもわからぬ。おまえがどこの馬の骨であってもかまわぬ。泥棒であってもかまわぬ。困っている者をとめるのは相見たがいだ。」といってとめてくれた宮崎県南郷村や高知県富山町の老人をいまでも思い出すことができる。」
初出 (原題「生活から何が失われたか」『展望』1968年6月)
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「戦後の老人は学校教育をうけたものが多くなる」
生活とことば p171〜
古きよきものの意味
「戦後の村々をあるくようになって、戦前にはないはつらつとしたものを方々で見た。まず、今の方がよい、戦争にまけてよかったという声である。何がよいのかといえば、農地解放がおこなわれて、みな自作になれたということである。土地が自分のものになった。その土地で何をつくろうと自分の勝手である。自分の思いのままの経営ができる。というのが多くの百姓たちの言い分であった。
それまで(戦前)に旅の途中で話をたのまれて、大ぜいの前に立つことがあったが、そういうとき、その集まりの中に何人かの人がひたいで物を見るような眼つきをしていた。それは、「おまえ、そんなことをいっているけれど、そんなことできるものではない」という不信と抵抗を示しているものであった。それはいつも私の心を暗くした。
ところが、戦後は方々で話をしてみても、そういう人はほとんどいなくなった。一応皆前向きになり、現下の状況を喜んでいるように見えた。しかし考えてみると、その人たちは七〇〜八〇歳の老人ではなく、若い者の方であった。
それでは老人たちはどう考えていただろうか。「今の方がはるかに暮らしよくなった」という老人にたくさん出あったのは秋田・長野・新潟・大阪・鳥取・熊本などであった。熊本を除いては小作争議の比較的多かったところのように思われる。
その反対に世の中が人情がうすれて暮らしにくくなったような気がするという声を多く聞いたのは、岩手・青森・石川・山梨などだった。老人たちの言い分はいろいろあった。 何も彼も現金取引だし、義理も人情もなくなった。強い者勝ちになった。人間一人一人が妙につめたくなってゆく、人情紙のごとし、にくまれ子が世にはびこる等々。今思い出してみても、世をなげいていた老人は少なくなかった。そういう人は「今のほうがよい」といっている地方にもいたのである。ただし私が話しあった多くの人たちを想いうかべての比重にもとづいての話である。…
ただ、見も知らぬ旅人の私を快くとめてくれたのは、いつの場合も「相見たがい」の思想であった。くだいて言えば持ちつ持たれつということである。「いつおまえの世話になるかもわからぬ、ならぬかもわからぬ。おまえがどこの馬の骨であってもかまわぬ。泥棒であってもかまわぬ。困っている者をとめるのは相見たがいだ。」といってとめてくれた宮崎県南郷村や高知県富山町の老人をいまでも思い出すことができる。」
初出 (原題「生活から何が失われたか」『展望』1968年6月)
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「戦後の老人は学校教育をうけたものが多くなる」
posted by Fukutake at 08:02| 日記