「ゴッドファーザーは手持ち無沙汰 ーバックウォルド傑作選(4)ー」 アート・バックウォルド 永井淳・訳 文藝春秋 1989年
弾薬を禁止せよ p183〜
「拳銃規制案のロビイストたちが銃が人間を殺すと主張する。「武器を持つ権利」派は銃は人を殺さないー 人間を殺すのは人間だと主張する。だがどちらも間違っている。凶器研究の専門家アーノルド・クローカスによれば、人間を殺すのは銃弾である。
アーノルドは自説を裏づけるために、壁に各種の銃を並べてある研究室にわたしを招いた。そして銃架から一梃の銃を選んで、わたしに狙いを定めて引き金を引くようにいった。
いわれたとおりにすると、銃は「カチッ」と音をたてた。
「どうですなにも起こらないでしょう」とクローカスはいった。「従って銃が人を殺すのではないことがわかりました。ではつぎに標的をあなたが殺したいほど憎んでいる人間だと考えてください」
わたしはある人間を思いうかべ、ありったけの怒りを総動員して標的をにらみつけた。やはり何事も起こらなかった。
「これで、この距離では、人間もまた人間を殺せないということが証明されたわけです。今度はあなたの銃に弾丸をこめますから、それで引金を引いてみてください。
指示どおりにすると、轟音が鳴り響いて、弾丸は標的の中心を貫通した。
「さてあなたの結論は?」
「結論はただひとつ、危険な凶器は弾丸であるということしか考えられません」
「そのとおり。弾丸が銃身を通って発射されないかぎり標的を撃ち抜くことはできない、まただれかが引金を引かない限りは銃は発射されないということは事実です。しかし弾丸が入っていなければ標的は無傷のままなのです」
「つまりアメリカが当面している真の問題は、拳銃でも、それを使用する人間の過剰でもなく、だれでも簡単に入手できる銃弾だというわけですな」
「おっしゃるとおりです。このことは拳銃規制派と『武器を持つ権利』派をともに満足させられるかもしれないということをわれわれに教えています。つまり拳銃を売ることは許すが、弾薬の製造と販売を禁止すれば、双方とも満足するはずです」
「しかし銃器愛好家は、弾丸を発射できなかったら銃をもっても意味がないというでしょう」
「勝手にいわせておけばいいんですよ。彼らの言い分には法的根拠がないんです。憲法のなかには、アメリカ人は銃弾を所持する権利があると述べた条項はありませんからね」
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2022年09月27日
銃弾を持つ権利を制限せよ
posted by Fukutake at 08:07| 日記
貧乏はみじめか
「ソークラテースの思い出」 クセノフォーン 佐々木理 訳 岩波文庫
みじめな暮らし p57〜
「あるとき、学匠のアンティフォーンが、ソークラテースのところへやって来て、弟子一同のいる前で次にように言った。
「ソークラテース、君は奴隷ですら主人にこんな扱いをされたら逃げ出すような暮らしをしている。食べる食物と飲む飲物はこの上なくお粗末であり、衣服は単に粗末なばかりでなく、夏も冬もおなじ物を着とおし、履物なし下着なしで過ごしている。ほかの師匠たちは、自分の弟子たちを己れの模倣者に仕立てあげるが、君もそれとおなじように自分の弟子たちを扱うとしたら、君は不仕合わせを教える先生であると思うがよろしい。」
するとソークラテースはこの言葉に答えて言った。
「アンティフォーン、君は私が大変みじめな暮らしをしていると考えているようだ。そのようすから察すると、君はきっと私のような暮らしをするくらいなら、死んだ方がよいと思っているだろうと思う。では、私の生活のどこを君が辛いと認めるのか二人で考えて見よう。それはこうか、金を取った人々は、金を取った仕事をいやおうでもしてやらなくてはならないのに、私は少しも取らないから、いやだと思う人間には会談する必要がないためか。
あいはまた私の食事を粗末と言うのは、私が君の食べるより健康上劣り、そして営養の劣る物を食べているからと言うのか。それとも、私の食料品は君のより品数が少なく、価も高価で、容易に手に入らんからと言うのか。
それとも君の調達する物は、私のより味がよいからか。君は、物がまことに旨く食える者は、珍味佳肴の必要がなく、まことに旨く飲める者は、よその珍しい酒をほしがる必要が少しもないのを、知っていないか。
着物というものは、これを更(か)えるのは、君も知るとおり、暑い寒いために更るのであり、履き物は足を傷めて歩行を妨げる事がないように履くのである。しかるに、君はいつか私が寒くて他人以上に家の中に閉じこもり、暑さのゆえに誰かと日陰をあらそい、あるいは足が痛くて勝手なところへ歩けずにいたことを、見たことがあるか。
生まれつききわめて身体の虚弱な者も、鍛錬すれば、鍛錬を怠る頑丈な者より、その鍛錬する運動に強くなり、はるかに容易にこれを耐えられることを君は知らなぬか。私は自分の体力にいついかなる必要ば生じようとも、ことごとくこれに耐えられるように身体を鍛錬してあるのだから、君が鍛錬してないより楽々とすべてに耐えられると、君は思わないか。
食慾や眠気や歓楽の奴隷となるのを避けるには、これらよりなお楽しいものがほかにあるということより、もっとよい妙薬があると君は思うか。それは、これを行っている間が楽しいばかりか、またそれが永久に役に立つという希望を与えることによって、楽しいところのものだ。なおまた、君がよく知ってることであるが、何事もうまく行かぬ気がする者は楽しくない。これに反し、農耕や船商売や、そのほか自分のするどんな仕事でも、見事に繁栄していると考える者は、よく仕合わせていると思いに、心から楽しいのである。さればこうしたすべてのことからいって、自分も前より良い人間となり、友達をもますます善い人間にしてつきあえると考えより、なお楽しいことが、またとあり得ると君は思うか。(私は少なくともいつもそう考えている。)
それからまた、友人あるいは国家の救援におもむかなければならぬ場合、いま私の暮らしているように暮らしている者と、君が幸福と呼ぶように暮らしている者と、どちらがこれに応ずる余裕をよけいに持っているであろうか。高価な食料がなくては暮らせないものと、あり合わせの物で間に合う者と、どちらが戦場の艱難を楽に耐えるであろうか。容易に手に入らぬ物をほしがる者と、手あたり次第の物で充分暮らして行ける者と、包囲に陥ったとき、どちらが一層早く降伏するであろうか。アンティフォーン、君は幸福とは贅沢と豪奢なことだと思っているようだ。私は思う、欲するものなきは神にひとしい。けれどもほしい物が最小限に少ないのは神に近い。そして神にひとしいのは最大の善であるが、神に近いのは最大の善にもっとも近いものだと。」
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みじめな暮らし p57〜
「あるとき、学匠のアンティフォーンが、ソークラテースのところへやって来て、弟子一同のいる前で次にように言った。
「ソークラテース、君は奴隷ですら主人にこんな扱いをされたら逃げ出すような暮らしをしている。食べる食物と飲む飲物はこの上なくお粗末であり、衣服は単に粗末なばかりでなく、夏も冬もおなじ物を着とおし、履物なし下着なしで過ごしている。ほかの師匠たちは、自分の弟子たちを己れの模倣者に仕立てあげるが、君もそれとおなじように自分の弟子たちを扱うとしたら、君は不仕合わせを教える先生であると思うがよろしい。」
するとソークラテースはこの言葉に答えて言った。
「アンティフォーン、君は私が大変みじめな暮らしをしていると考えているようだ。そのようすから察すると、君はきっと私のような暮らしをするくらいなら、死んだ方がよいと思っているだろうと思う。では、私の生活のどこを君が辛いと認めるのか二人で考えて見よう。それはこうか、金を取った人々は、金を取った仕事をいやおうでもしてやらなくてはならないのに、私は少しも取らないから、いやだと思う人間には会談する必要がないためか。
あいはまた私の食事を粗末と言うのは、私が君の食べるより健康上劣り、そして営養の劣る物を食べているからと言うのか。それとも、私の食料品は君のより品数が少なく、価も高価で、容易に手に入らんからと言うのか。
それとも君の調達する物は、私のより味がよいからか。君は、物がまことに旨く食える者は、珍味佳肴の必要がなく、まことに旨く飲める者は、よその珍しい酒をほしがる必要が少しもないのを、知っていないか。
着物というものは、これを更(か)えるのは、君も知るとおり、暑い寒いために更るのであり、履き物は足を傷めて歩行を妨げる事がないように履くのである。しかるに、君はいつか私が寒くて他人以上に家の中に閉じこもり、暑さのゆえに誰かと日陰をあらそい、あるいは足が痛くて勝手なところへ歩けずにいたことを、見たことがあるか。
生まれつききわめて身体の虚弱な者も、鍛錬すれば、鍛錬を怠る頑丈な者より、その鍛錬する運動に強くなり、はるかに容易にこれを耐えられることを君は知らなぬか。私は自分の体力にいついかなる必要ば生じようとも、ことごとくこれに耐えられるように身体を鍛錬してあるのだから、君が鍛錬してないより楽々とすべてに耐えられると、君は思わないか。
食慾や眠気や歓楽の奴隷となるのを避けるには、これらよりなお楽しいものがほかにあるということより、もっとよい妙薬があると君は思うか。それは、これを行っている間が楽しいばかりか、またそれが永久に役に立つという希望を与えることによって、楽しいところのものだ。なおまた、君がよく知ってることであるが、何事もうまく行かぬ気がする者は楽しくない。これに反し、農耕や船商売や、そのほか自分のするどんな仕事でも、見事に繁栄していると考える者は、よく仕合わせていると思いに、心から楽しいのである。さればこうしたすべてのことからいって、自分も前より良い人間となり、友達をもますます善い人間にしてつきあえると考えより、なお楽しいことが、またとあり得ると君は思うか。(私は少なくともいつもそう考えている。)
それからまた、友人あるいは国家の救援におもむかなければならぬ場合、いま私の暮らしているように暮らしている者と、君が幸福と呼ぶように暮らしている者と、どちらがこれに応ずる余裕をよけいに持っているであろうか。高価な食料がなくては暮らせないものと、あり合わせの物で間に合う者と、どちらが戦場の艱難を楽に耐えるであろうか。容易に手に入らぬ物をほしがる者と、手あたり次第の物で充分暮らして行ける者と、包囲に陥ったとき、どちらが一層早く降伏するであろうか。アンティフォーン、君は幸福とは贅沢と豪奢なことだと思っているようだ。私は思う、欲するものなきは神にひとしい。けれどもほしい物が最小限に少ないのは神に近い。そして神にひとしいのは最大の善であるが、神に近いのは最大の善にもっとも近いものだと。」
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posted by Fukutake at 08:04| 日記