「「オーイ どこ行くの」ー夏彦の写真コラム 山本夏彦 新潮文庫 平成十四年
船があっても乗る人がない p256〜
「オリンピック招致に成功した国はみんな悪くなっている、いけなくなっていると某月某日さる友人に聞いて私は大賛成した。
東京オリンピックは昭和三十九年だった。 三十年代の前半まで、日本は戦前に還りたくて、ようやく還った頃である。 まだ煉炭火鉢もちゃぶ台も、下駄も草履も、懐にはちり紙の用意もあった。 煙突掃除もはさみ包丁かみそりの研屋(とぎや)も回って来た。
私の事務所は昭和二十九年秋から芝のこんぴら様の前にある。 あのあたりは愛宕下にかけて戦災にあってない。 初夏のころは金魚売りが来た、青梅を売りに来た、梅を漬ける家がまだあったのである。 あれば大八車をひいて売りに来る若い衆がいたのである。
これらは皆オリンピックが来るときまって以来消えてなくなった。 そして盛んな土木がおこった。 ホテルが建った。 高速道路が日本橋の上まで覆いかぶさった。
当時はまだ西洋人は金持ちだと日本人は思っていた。 オリンピックをみに来てついでに観光旅行をしてくれると欲ばりは色めきたった。 寿司屋の末にいたるまで組合は美々しいポスターをつくって、寿司の一々に英語の訳語をつけて待ったが、客は一人も来なかった。
航空機の時代になっていたことをうっかり忘れたのは、金持ちは船で来て船で帰る「戦前」が頭にあったからである。
ところが西洋人は観光旅行なんかしないで、あっというまに帰ってしまった。 おかげで日本人はひとりで勝手に経済成長して、ハイテク世界一の経済大国になってしまった。 ならなければ世界中から袋だたきにならないですんだのである。
小国寡民が理想である。 船があっても乗る人がない。 鎧かぶとがあっても着る人がない。 鶏や犬の声がしても、民老死にいたるまで相往来しないと二千年も前に中国の賢人が言っている。 いま二票の差でオリンピックは北京に来ないでシドニーに去ったという。 来ないでよかった。 何が幸いになるか分からない。」
(平成五年十月十一日ごう)
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山内一豊の妻
「常山紀談 上巻」 湯浅常山 著 森銑三 校訂 岩波文庫
山内一豊 馬を買れし事 p100〜
「山内土佐一豊 其はじめ織田家に仕えたり。 東国第一の駿馬なりとて、安土に牽(ひ)き来てあきなう者あり。 織田家の士 是を見るに、誠に無双の俊足なれど、値あまりに貴(たか)し、とて求むべき人なく、いたづらに牽きて帰らんとす。
一豊其の頃は猪右衛門といひしが、此の馬望みに堪えかねれども、いかにも叶うべからざれば家に帰り、身貧しきほど口惜しきことなし。 一豊奉公の初めにあっぱれかかる馬に乗りて、屋形の前に打出べき物を、とひとり言しければ、妻つくづくお聞きて、さほどに思い給はんには、其値はいかばかりにてか候、と問う。 黄金十両とこそいひつれ、と答う。
妻聞きて、さほに思い給はんには、其馬求め給え。 其料をばまいらすべし、と鏡の底よりとり出して、一豊が前にさし置いたり。 一豊大いにおどろき、此年ごろ貧しくて苦しき事のみ多かりしに、此の金ありともしらせたまわず。 心強くも包み給いけん。 今此馬得べしとは思ひもよらざりき、と且つは悦び且つは恨む。 妻仰の旨(むね)ことわりにてこそ候え。
さりながらこれはわらは此御家に参りし時、父此かがみの下に入れ給ひて、あなかしこ、よの常の事にゆめゆめ用いるべからず。 汝が夫の一大事とあらん時にまいらせよ、と戒めたまい候き。 されば家の貧しきも世の常なれば
堪え忍びても過ぎぬべし。 誠に今度京にて馬揃(うまそろえ)あるべしと承れば、此事天下の見物(みもの)なり、君も又つかえの始めなり。 よい馬召して見参せさせまうさんと存候てこそ奉れ、といふ。
一豊悦ぶ事限りなく、やがて其馬求めてけり。 程なく京にて馬揃ありし時 打乗りて出しかば、信長大いにおどろき、あっぱれ馬や、とて、事の由聞き給い、東国第一の馬遥にわが方にひき来たりしを、空しく帰さんは口おしき事ぞとよ。 それに年ごろ山内は久しく浪人してありしと聞く。 家も貧しからんに求め得たるは、信長が家の恥を濯ぎたるうえ、弓箭(ゆみや)とる身のたしなみ是に過ぎたる事やある、と感じて、是より次第に用いられしとぞ。」
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一豊の妻の功、ここにあり。
山内一豊 馬を買れし事 p100〜
「山内土佐一豊 其はじめ織田家に仕えたり。 東国第一の駿馬なりとて、安土に牽(ひ)き来てあきなう者あり。 織田家の士 是を見るに、誠に無双の俊足なれど、値あまりに貴(たか)し、とて求むべき人なく、いたづらに牽きて帰らんとす。
一豊其の頃は猪右衛門といひしが、此の馬望みに堪えかねれども、いかにも叶うべからざれば家に帰り、身貧しきほど口惜しきことなし。 一豊奉公の初めにあっぱれかかる馬に乗りて、屋形の前に打出べき物を、とひとり言しければ、妻つくづくお聞きて、さほどに思い給はんには、其値はいかばかりにてか候、と問う。 黄金十両とこそいひつれ、と答う。
妻聞きて、さほに思い給はんには、其馬求め給え。 其料をばまいらすべし、と鏡の底よりとり出して、一豊が前にさし置いたり。 一豊大いにおどろき、此年ごろ貧しくて苦しき事のみ多かりしに、此の金ありともしらせたまわず。 心強くも包み給いけん。 今此馬得べしとは思ひもよらざりき、と且つは悦び且つは恨む。 妻仰の旨(むね)ことわりにてこそ候え。
さりながらこれはわらは此御家に参りし時、父此かがみの下に入れ給ひて、あなかしこ、よの常の事にゆめゆめ用いるべからず。 汝が夫の一大事とあらん時にまいらせよ、と戒めたまい候き。 されば家の貧しきも世の常なれば
堪え忍びても過ぎぬべし。 誠に今度京にて馬揃(うまそろえ)あるべしと承れば、此事天下の見物(みもの)なり、君も又つかえの始めなり。 よい馬召して見参せさせまうさんと存候てこそ奉れ、といふ。
一豊悦ぶ事限りなく、やがて其馬求めてけり。 程なく京にて馬揃ありし時 打乗りて出しかば、信長大いにおどろき、あっぱれ馬や、とて、事の由聞き給い、東国第一の馬遥にわが方にひき来たりしを、空しく帰さんは口おしき事ぞとよ。 それに年ごろ山内は久しく浪人してありしと聞く。 家も貧しからんに求め得たるは、信長が家の恥を濯ぎたるうえ、弓箭(ゆみや)とる身のたしなみ是に過ぎたる事やある、と感じて、是より次第に用いられしとぞ。」
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一豊の妻の功、ここにあり。
posted by Fukutake at 09:42| 日記