2022年09月22日

イタコ 

「宮本常一著作集 21」 庶民の発見  未来社

底辺の神々 p269〜

 「貧しさの象徴  弘前の町に報恩寺という天台修験の寺があり、この寺には「修験者盲僧都事務局」の札がかかげてあり、盲僧たちのことを管理しているといわれるが、津軽地方では盲僧・巫女は修験道の寺の管理するところであり、それも加賀白山系のものであったようである。

 しかもこの野にオシラ神がみちみちていたのは、その信仰がさかんであったということもあろうが、むしろ盲目の人の多かったということに問題があると思う。目の衛生が行きとどかない時代には目の見えないものはことのほか多かった。それが町のようなところなら按摩などで生活をたてることができたであろうが、そうでない地方では田舎わたらいをして、門付などによって生活をたてるより方法がなかった。目の見えぬものの門付は声をたててあるくことがもっともよい方法で、琵琶法師も三味線をもつ瞽女の類も多くは盲目であった。それらがどこかに溜り場を持ち、そこで門付けを公認してもらって、上前をはねられながら、みんな細々として生活をたてたのである。それが津軽地方ではオシラさまを持って門付をして歩いた。オシラ様あそばせばかりでなく、この地方では死者の口寄せも巫女の重要な仕事の一つである。不幸のつづく家や、法要をいとなむ家ではイタコをまねいて、先祖の霊をよびもどしてもらって死者の声をきく。考えてみればおよそ論理にあわぬことばかりなのだが、この地方では目に見えぬ不幸があったりすると、それらはすべて目に見えぬ神霊の怒りのように思えたのである。

 昭和一六年は東北地方の太平洋岸は冷害がおそっていた。七月の末ごろここを歩いて寒々とした野の稲の葉が白く枯れているのを見た。夏の支度ではガタガタふるえるほど寒かった。古間木というところで、雨を見ながら百姓たちが「わしら何一つ悪いことをした覚えもないのに、どうして神さまはこういう雨をふらすのだろう」となげいているのをきいて、心をいたましめたことがある。冷害すら気づかぬ不徳をおかしていることが原因のように解しており、そのためにも神霊の声はたえずきかねばならなかった。そのおり別の百姓が「わしら悪いことをしなくても支那の方でたくさん人を殺している。よくないこともあるだろう」と言っていた。日支事変のことをさしているのである。

 イタコたちは、六月の津軽川倉の地蔵祭や下北半島恐山の祭りにも、あつまって来た。その時にはオシラさまは持って来なかった。参詣者にたのまれて数珠をならし、太鼓をたたき、先祖の霊をおろして口寄せすることだけが一日じゅう行われた。川倉で見たところでは、丸木の柱に屋根をかんたんにな茅葺きにした長屋をつくり、それを一坪ぐらいずつに仕切をし、その中に筵をしいて一人ずつイタコがおり、口寄せをたのむ人たちがそのまえにすわってきいている。イタコはあわれな声で、抑揚をつけつつ、死者の霊の声をのべている。きいている者の中には、身もだえして泣きじゃくっている者もある。貧しいが故に、無知なるが故に死んでいった人々に対しても十分なことをしてやれなかったことを、悔いかなしんでいるのである。」

初出 『芸術新潮』昭和60年5月
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posted by Fukutake at 07:57| 日記

信陵君

「宮ア市定全集 5 史記」 岩波書店

史記を語る 信陵君 p128〜

 「公子(信陵君)は、割符を手にしたので、喜び勇んで出発し、もう一度、夷門の侯生を訪ねて暇乞いをした。侯生は言う、
  割符を将軍に示せば、彼は指揮権を公子に引渡さなければなりませんが、併し彼も古強者です。若し疑ってもう一度国王の指示を求めたなら、計略が暴露してしまいます。その時はこれまで、私が前に御紹介した屠者の朱亥、あいつは力持ちですからお役に立ちますぜ。

 これを聞いて公子がさめざめと泣いた。命が惜しくなったからではない。晋鄙はこれまで国の為に働いてきた老将だ。それを手にかけて殺すのは、何とも忍び難いからだ。併し此処まで来てしまった以上、もう引き返すことはできない。公子は朱亥を伴って邯鄲の軍前に赴いた。
 公子は晋鄙に会って国王の命だと告げ、指揮権の委譲を求め、証拠の割符を提示した。晋鄙がそれを手に取って、自己の割符と合わせてみると、ぴたりと合致する。併し晋鄙は疑わしげに公子を見やり、
  何分にも十万の大軍です。急においそれと引渡しできません。

と拒絶の気配を示した。孔子の背後にいた朱亥が、この時遅しとばかり、四十斤の鉄槌で、牛を屠るように晋鄙を打ち倒した。公子が晋鄙に代って将軍の旗を振って軍中に令した。

  晋鄙は国王の命令に背いたから已むなく死刑に処したぞ。これから秦軍と決戦だ。父子共にある者は父の方が帰れ。兄弟共に軍中にある者は兄の方が帰れ。一人子で兄弟のない者は帰れ。後に残った者は生きて帰れると思うな。

 こうして決死の軍勢八万人を得て、秦軍に向かって突撃を開始した。その勢いに恐れて秦軍は邯鄲を棄てて退却し、改めて戦略を練り直さねばならなかった。公子は平原君に迎えられ、意気揚々と邯鄲に入城して趙王と会見し歓待された。引率した軍隊を魏に返したあと、公子は魏王の怒りが解けるまで、趙に客分として留まらねばならなかった。

 侯生は公子を見送った後、公子が晋鄙の軍前に到達する頃を見計らい、北方に向って自刎した。彼は何故自殺しなければならなかったか。恐らく彼が公子に勧めたことは、割符を盗ませることと言い、老将、晋鄙を殺すことと言い、何れも国法上許すことのできない大罪であった。結果として、趙を助けることが魏にとって大益を齎(もたら)したには違いないが、両者は一応別事であって、計算して相殺することはできない、併し政治家として世に立つ信陵君にも、信陵君に知遇を得て上客とされた侯生にも、従来の自分の生き方を正しとし、信念に頼って行動しなければならぬ場合がある。殊に侯生は義によって信陵君と結ばれた仲である。義を見てせざるは勇なきなり、というのが、侠客の信条であった。何も彼も知った上での決断であったことを、世人に知って貰いたい為に選んだのが自殺の道であったと思われる。」

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この「魏公子列伝は史記の文章の中でも特に出来栄えがよい。」とある。

posted by Fukutake at 07:53| 日記