2022年09月21日

無駄な悠々自適

「紳士の言い逃れ」土屋賢二 文藝春秋(文春文庫)

元教師、悠々自適を語る p68〜

 「久しぶりに、お茶大の教え子と電話で話した。「定年の後はどうしていらっしゃるんですか?」「悠々自適だよ」「悠々自適って、貧乏ゆすりすることなんですか」「び、び、貧乏ゆすりも含むんじゃないかな」「流暢に話せないのも悠々自適なんですか?」「えー、心の動揺がことばに出るだけで、悠々自適とは関係ない…と思う。しかし貧乏ゆすりの速度が少しゆっくりしてきたような気がする」「速度の問題じゃないでしょう。分かった! 悠々自適って、態度と風采が貧相だということなんですか?」「君に悠々自適の概念を説明するのは無理だ。とにかくわたしの生活を遠くから見れば分かるはずだ」「貧乏ったらしいことがですか? 先生がどうしていらっしゃるか、いつもみんなで心配しているんですよ。先生はわたしたちのことを忘れていらっしゃるでしょうけど」

 「どんでもない! 君たちのことはいつも心配しているよ。毎月五秒間は」「えっ、そんなに? わたしたちより心配してくれているんですね」「この恩知らず! 五秒間も心配するんじゃなかった。君はどうしてる?」「ちゃんと仕事をしています」「そんなことでどうする! 君の言う<ちゃんとやっている>が<ちゃらんぽらん>という意味だということは分かっている」「先生から学んだ通りです」「せめて節電ぐらい、やってるか?」「ちゃんとやっています」「そんなことでどうする! わたしを見よ。節電は悠々自適に反する気もするが、何しろ政府と電力会社と妻からうるさく言われているんだ。寝るときは照明も消すし、テレビは見るときしかつけない」電車も乗らないようにしている」「それなら当然、まばたきをするたびに照明もテレビも消していらっしゃるんでしょうね」「こまめに消しすぎるとかえって電力を消費するから、泣く泣くつけたままにしている。それにやってみると分かるが、まばたきと電気を消すタイミングが合わないんだ」「それもしないなら、どこが節電なんですか?」「わたしは電気自動車や電動釘打機や電動ミシンや投光器の使用を控えている。買ってもいないぐらいだ。電動発電機とか電気靴とか電気帽子などがもし存在していたら、その使用も控えていたはずだ。念を入れて、帽子も靴も身につけていないぐらいだ」「えっ、裸足ですか?」

 「ビーチサンダルだ。さらに念を入れて仕事も控えている」「仕事って何ですか? 叱られるお仕事ですか?」「叱られるのは仕事というより納税のようなものだ。夫であるかぎり払わなきゃいけない夫税というか、生存税なんだ。仕事というのは執筆の仕事だ。仕事には締め切りがあっていつも追い込まれている。こっちは節電で忙しいんだが、編集者は催促に忙しい。節電しているどうか疑わしいものだ」「結局、先生は節電も仕事もしていないんですね?」「節電で忙しいだけじゃないんだ。毎日頭(こうべ)を上げて山月を望み、首を垂れて故郷を思っている。国破れて山河ありの心境なんだ」「どうしちゃったんですか。先生? 意味不明ですよ。授業の時と変わってないじゃないですか」「年々歳々花あい似たり、歳々年々人同じからず。しゃべることは似ていてもしゃべる人間が違う。今のわたしは悠々自適だから皆とは違う」「ポイントがズレているんじゃありませんか?」「君には枯淡の境地も深遠な哲理も理解するのは無理だ。いわんや悠々自適をや」

 学生が何か言っているのを無視して電話を切った。若い者に悠々自適の境地を説明するのは無駄だ。わたしも二十年後ぐらいには悠々自適の境地がどんなものか分かるようになるだろう。今はまだ若すぎる。」

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posted by Fukutake at 12:35| 日記

麹町の赤トンボ

「綺堂随筆 江戸の思い出」 岡本綺堂 河出文庫 2002年

思い出草 赤蜻蛉 p36〜

 「私は麹町元園町*一丁目に約三十年住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更に止まって、兎にかく元園町という土地を離れたことはない。このごろの秋晴の朝、巷に立って見渡すと、この町も昔とは随分変わったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。

 江戸時代に元園町という町は無かった。このあたりは徳川幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所(くわちゃうえつけじょ)となり、更に拓かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が始めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだが、今では一坪二十銭以上、場所に依ては一坪四十銭と称している。

 私が幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到る処に草原があって、蛇が出る、狐が出る、兎が出る、私の家の周囲にも秋の草花が一面に咲き乱れていて、姉と一所に笊を持って花を摘みに行ったことを微かに記憶している。その草叢の中には、所々に小さな池や溝川のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。今日では郡部へ行っても、こんな風情は容易に見られまい。

 蝉や蜻蛉も沢山いた。蝙蝠の飛ぶのも屢々見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋を提げて、「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これが又実におびただしいもので、秋晴の日には小さい竹竿を持って往来に出ると、北の方から無数の赤蜻蛉が所謂雲霞の如く飛んで来る。これを手当たり次第に叩き落とすと、五分か十分の間に忽ち数十疋の獲物があった。今日の子供は二疋三疋の赤蜻蛉を見付けて、珍しそうに五人も六人もで追い廻している。

 きょうは例の赤とんぼうの日和であるが、殆ど一疋も見えないわたしは昔の元園町がありありと眼前に泛んで、年毎に栄えてゆくこの町がだんだん詰まらなくなって行くように感じた。
(初出 明治四十三年十一月、『綺堂むかし語り』収録)

麹町元園町* 現在の千代田区麹町

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posted by Fukutake at 12:28| 日記