「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房
経験をきく p294〜
「経験は知識のもとである。実証科学はいずれも経験を基礎にしている。そしてこの種の経験科学というものは、いずれも長年月にわたって、それぞれちがった人たちが経験したことの集積の上に成立するものなのである。それは個人だけでは経験しきれない多量さであると言わなければならない。わたしたちはその全部を直接自分で経験することはできない。その一部分を話で聞いて間接的に知ることができるだけである。
今日ではわたしたちは、大ていのことを学校で教えてもらったり、書物や雑誌で読んだりして知る。だから、老人の見聞というようなものは、もうあまり必要がないことになる。時代の移り変わりがはげしいから、老人に教えてもらったことは役に立たないとか、有効性が少ないということになる。
しかし学校で教えられたこと、書物で読んだことだけで、何でも間に合うのかどうか。大体のところを言えば、学校や書物が教えてくれるのは理くつであり、必ずしも経験に直接つながるものとは言えないようなものが少なくない。
むろん老人の話でも、それを聞くわたしたちにとっては、他人の経験なのであって、直接わたしたち自身の経験となるものではない。しかしとにかく相手の老人は、自分自身の経験にもとづいて話しているのである。ところが学校の先生は必ずしも実地の経験者ではないだろう。一般論を受け売りしているだけという場合が少なくない。また、書物は人間ではなくて物であり、こちらが問いかけても答えてくれない。著者は自らの経験を語ることがあるとしても、わたしたちは著者の声を直接きくのでもないし、その表情を見るのでもない。ラジオやテレビの方が、そういう点は直接的である。…
しかしわたしたちの経験は大部分が間接的であり、必ずしも正確なものではない。そして概括的な理くつを教えられるだけである。しかしそれだけでも何となくすべてを知っているような気持ちになってしまう。
しかし人生のことは、職場のことでもあるいは結婚し子供をもつことでも、一定の時間を生きてみて、はじめて経験し、はじめて知ることのできるものが少なくない。大人にならなければわからないこと、老人にならなければわからないことも、たくさんあるのだ。それは学校でも教えないし、書物も語らないかもしれない。その時になって自分でさとるほかはない。わたしたちは自分の経験が狭く、それも確実とは言えないことを知る必要があるだろう。
その不足を理くつで補うことも一つの方法である。しかし理屈は経験の代わりになるものではない。これから経験しなければならないことが、人生にはまだまだあるのであり、大人や老人には既にそれを経験しているかも知れないということ、それが時にはわたしをして、老人たちの言葉にしずかに耳を傾けることのかしこさを教えるのではないか。」
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琵琶の名手
「十訓抄」新編 日本古典文学全集 小学館
下巻 十ノ六十 琵琶の秘事 p454〜
「源基綱卿は年を取ってから、太宰権帥を拝命し、任地へ下ることが命じられた。その時、白河院は、「年を取ってから、遥か遠くの地に、そちが赴くと思うと、とても心細く、気がかりも多い。琵琶の秘事などは、いったい誰に伝えておく所存か。聞きおきたいことである。」とおっしゃられるので、「基綱卿は、「子供の時俊、重通などに形ばかりは伝えおきましたが、その器量ではございません。孫にあたります小女に琵琶の秘事は隅々まで残さず教えおいてございます。もし、お聞きにならねばならないことがございましたら、その娘をお召し下さいませ」と申し上げて、太宰府に下っていった。
その後、基綱卿は任地でお亡くなりになってしまった。白河院は、「よくぞ聞いておいたことだ」と思いになられ、基綱の孫娘を召し出して、琵琶をお聞きになられた。孫娘はまだ喪中の頃にあたり、柑子色の袴をはき、鈍色の衣(きぬ)という喪服姿であったが、試し弾きの曲から三つの秘曲にいたるまで、あらゆる曲を弾いてみせた。その演奏は本当に素晴らしかった。年は十三歳、まだ弱年で、あの白楽天の「琵琶行」の女の話が自然と思い浮べられ、誰も深い感動を覚えた。
この少女の父は、尾張守高階為遠、母は基綱の娘である。後になって、待賢門院璋子さまの御所に出処し、「尾張」という名でお仕えしていた。年をとってから、出家して尼になり、大原に住んでいた。二条院が琵琶の御師にと、お召しになったが、大原に籠り住んでから、だいぶん年月も経ち、「今さらお仕えするわけにもいきません」ということで、「忘れてしまいました」と言って、参上しなかった。という。」
(原文)
「基綱卿、年たけてのち、帥(そち)になりて下されける時、白河院、「年高くなりて、はるかおもむく、心細くおぼしめす。琵琶の秘事など、たれに伝えける。聞こしめおくべきことなり」と仰せられければ、「時俊、重通などに、かたのごとく伝えおき侍れども、その器に足らず侍れば、孫にて候ふ小女に、秘事の底をはらひて、教えおきて侍り。もし聞こしめすべきことあらば、かれを召すべし」と申し、下りにけり。
そののち、筑紫にて隠れ給ひければ、法皇、「かしこくぞお尋ねおきてける」とおぼしめし出でて、かの小女を召して、琵琶を聞こしめすことありけり。いまだ色*なりければ、柑子色の袴着て、鈍色の衣ども着て、搔き合せより三曲まで、数をつくしてひきたりける。いとどめでたかりけり。年は十三にて、いと小さかりければ、琵琶引の昔語り思ひやられて、あはれなりけり。
この小女は尾張守高階為遠が女、帥の女の腹なり。のちに待賢門院に参りて、尾張とて候ひけり。年たけてのち、尼になりて、大原にぞ住みける。二条院の御師のために召しけれども、籠り居にてのちなりければ、いまさらとて、忘れたるよし申して、参らざりけり。」
色* 喪服。鈍色や白などを用いた。
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徒然草にもありそうな話。
下巻 十ノ六十 琵琶の秘事 p454〜
「源基綱卿は年を取ってから、太宰権帥を拝命し、任地へ下ることが命じられた。その時、白河院は、「年を取ってから、遥か遠くの地に、そちが赴くと思うと、とても心細く、気がかりも多い。琵琶の秘事などは、いったい誰に伝えておく所存か。聞きおきたいことである。」とおっしゃられるので、「基綱卿は、「子供の時俊、重通などに形ばかりは伝えおきましたが、その器量ではございません。孫にあたります小女に琵琶の秘事は隅々まで残さず教えおいてございます。もし、お聞きにならねばならないことがございましたら、その娘をお召し下さいませ」と申し上げて、太宰府に下っていった。
その後、基綱卿は任地でお亡くなりになってしまった。白河院は、「よくぞ聞いておいたことだ」と思いになられ、基綱の孫娘を召し出して、琵琶をお聞きになられた。孫娘はまだ喪中の頃にあたり、柑子色の袴をはき、鈍色の衣(きぬ)という喪服姿であったが、試し弾きの曲から三つの秘曲にいたるまで、あらゆる曲を弾いてみせた。その演奏は本当に素晴らしかった。年は十三歳、まだ弱年で、あの白楽天の「琵琶行」の女の話が自然と思い浮べられ、誰も深い感動を覚えた。
この少女の父は、尾張守高階為遠、母は基綱の娘である。後になって、待賢門院璋子さまの御所に出処し、「尾張」という名でお仕えしていた。年をとってから、出家して尼になり、大原に住んでいた。二条院が琵琶の御師にと、お召しになったが、大原に籠り住んでから、だいぶん年月も経ち、「今さらお仕えするわけにもいきません」ということで、「忘れてしまいました」と言って、参上しなかった。という。」
(原文)
「基綱卿、年たけてのち、帥(そち)になりて下されける時、白河院、「年高くなりて、はるかおもむく、心細くおぼしめす。琵琶の秘事など、たれに伝えける。聞こしめおくべきことなり」と仰せられければ、「時俊、重通などに、かたのごとく伝えおき侍れども、その器に足らず侍れば、孫にて候ふ小女に、秘事の底をはらひて、教えおきて侍り。もし聞こしめすべきことあらば、かれを召すべし」と申し、下りにけり。
そののち、筑紫にて隠れ給ひければ、法皇、「かしこくぞお尋ねおきてける」とおぼしめし出でて、かの小女を召して、琵琶を聞こしめすことありけり。いまだ色*なりければ、柑子色の袴着て、鈍色の衣ども着て、搔き合せより三曲まで、数をつくしてひきたりける。いとどめでたかりけり。年は十三にて、いと小さかりければ、琵琶引の昔語り思ひやられて、あはれなりけり。
この小女は尾張守高階為遠が女、帥の女の腹なり。のちに待賢門院に参りて、尾張とて候ひけり。年たけてのち、尼になりて、大原にぞ住みける。二条院の御師のために召しけれども、籠り居にてのちなりければ、いまさらとて、忘れたるよし申して、参らざりけり。」
色* 喪服。鈍色や白などを用いた。
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徒然草にもありそうな話。
posted by Fukutake at 11:03| 日記