「二宮翁夜話 ー人生を豊かにする智恵の言葉ー (口述 二宮尊徳 筆記 福住正兄 編訳 渡邊毅)PHP 2005年
復讐心を捨てて世の中を救う p75〜
「両国あたりで敵討ちがあった、「勇士だ」「孝子だ」と人々はほめそやした。しかし、先生はおっしゃった。
復讐を尊ぶのは、まだ道理をよくわきまえていない者だ。東照公(徳川家康)も敵国にお生まれになったので、父祖の仇を討とうとだけ願われていた。しかし、酉誉(ゆうよ)上人の「復讐の志は、小にして益なく、人道に適ってない。国を治め、万民を安んずる道が天理であり、大いなる道理である」という説法に感じ入り、復讐の念を捨てて国を案じ、民を救う道に心を尽くされた。これより公の大業が成就し、万民の塗炭の苦しみが除かれた。
この道は、ひとり東照公に限ったことではない。凡人といえども同じことで、こちらが敵を討てば、あちらからもまた恨みを買うことは必定である。そうなると、怨恨が結んで解けることはない。お互いに「復讐だ」「復讐だ」と言って、ただ恨みを重ねるだけだ。
これはつまり、仏教でいう輪廻であって、永劫に修羅道に落ちて、人道を踏むことができない。こんなことは愚の至りであり、悲しいことだ。また返り討ちに遭うこともあるだろう。それでは痛ましいことではないか。これは道に似ているように見えて、実は道ではないからである。
復讐は政府に懇願すべきで、政府はまた草の根分けて、その悪人を捜査して刑罰に処するべきである。そして、自らは、「まっすぐな正しさで恨みに報いる」という聖語(『論語』憲問第十四)に従って、復讐をやめ、家庭をよくまとめ、立身出世を志し、親や先祖の名を高め、世の中に利益を与え、人を救うという天理を勤めるのがいちばんいい。これが子たる者の道であり、人道なのである。
しかし、今の世は人道でなく、修羅道である。天保の飢饉のときに、相州大磯の宿駅のある金持ちの家が、乱民によって打ち壊された。役人は乱民を捕らえて牢獄に入れたが、また打ち壊された金持ちも三年牢に入れた。
打ち壊された金持ちは、それにひどく腹を立て、役人と乱民を恨み、恨みを晴らそうと夢中になった。私は、その打ち壊された金持ちに、復讐は人道ではないという道理を説き、富者は貧しい者を救い、宿駅内を安んずることが天理であると諭した。
この者は、このとき決意できなかったが、その後円覚寺の淡海和尚に問い質して、悔悟し、決心して復讐の念を断った。そして、自分の財産を残らず出して、宿駅内の人々を救助した。これによって宿駅内の人々はにわかに心を一つにして仲よくなり、かつては打ち壊したこの者を自分の親のように敬愛し、役人もまたひじょうに褒め称えた。
「復讐は人道ではない。世の中を救い、世の中のためになることをするのが天理だ」と私はただ教えるだけで、この好結果を得ることができた。もし誤って、復讐を謀れば、どれだけの修羅場が現出したか計り知れない。恐るべきことではないか。」
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勝たず
「宮ア市定全集 22」日中交渉 岩波書店 1992年
真如親王 p203〜
「唐の蘇顎(そがく)の『杜陽雑編』という随筆に「日本国王子」という一節がある。これによると唐の宣宗の大中年間*に、日本国皇子が渡唐して宝器音楽を贈った。宣宗は盛大な宴会を催し、余興珍饌を陳(つら)ねて歓待したが、皇子が囲碁の名人だというので、帝室技芸員の顧師言という者に命じて対局させた。皇子はそのとき本国から持参した楸(ひさぎ)玉の盤、冷暖の棋子を持ち出した。楸玉というのは木理のある玉で鏡のように磨かれており、冷暖の棋子は人工を加えず天然に出来た黒白の碁石で、日本の東三万里、集真島に産し、夏握ると冷たく、冬握ると暖かいという稀代の宝である。さて対局して三十三手目になって勝負所へ来た。形勢はまだ何とも言えぬが、顧師言にとっても非常な危機を娠(はら)んでいたことは、彼が「君命を辱しめんことを懼れ、手に汗を握って長考に耽った」と書いてあるので分かる。ようやくにして三十三手を打ったが、これは「解両征勢」という手だとある。
さてこの意味がどうも判然としない。「二股に解れる止長手」と読めば、皇子の形勢が悪くなる。「双方からの攻め合いを解消する手」と読めば、顧師言が逃げを張ったことになる。恐らく劫(こう)のようなものを造って、千日手にしてしまったことででもあろうと推察される。とにかくこの手は顧師言の傑作で後世、鎮神頭と称せられたという。鎮神頭の意味もまた明らかでない。神様の頭を抑えたというのか、或いは神は心に通ずるから、これで一安心と胸を撫で下ろしたというのか、前者ならばに顧師言に有利であり、後者ならばかろうじて危機を打開したに止まる。いずれにせよ、この手には皇子も困却して、目を瞪(みは)り、臂(ひじ)を縮めて思案に耽ったが、遂に「勝たずと伏した」とある。この勝たずという句を、古来直ちに皇子が負けたように解釈するが、別にそう早呑込みする必要はない。文字通り勝たなかっただけであって、例えば劫が出来たときに、どうしてもそこから脱却することができないとすれば無勝負にしてしまうより外はない。伏すとは率直に実力を表明することで、躁に対する文字である。
さて対局の後に、皇子は接待役の通訳に向って、対手は唐で何番目の碁打ちかと尋ねた。通訳は即座に、彼は唐で三番目の名手だと答えたが、実は顧師言は、唐にはとっておきの第一の名人だったのである。皇子は「そんなら第一の名人と対局したい」と申し込むと、通訳は「唐の法として。第三の棋客に勝てば第二と対局し、第二に勝てば第一の名人と対局し得る慣しである。一足飛びに第一の名人とは指されない」と返事をしたので、皇子は碁盤を撫でながら、「小国の第一は、大国の第三にも及ばぬという言葉があるが本当にその通りだ」と嘆息したというのである。」
大中年間* 西暦七八〇〜七八三年
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「この話には二つの山があって、第一に顧師言がやっとのことで危機を脱して、ともかくも面目を失わなかったこと第二に通訳が架空の名人を作為して、唐の方が強いということに言いくるめたところに話の面白みがある。」
「この際の勝たずはあくまで勝たずで、同時に負けもしなかったと解釈する方がよさそうにおもえる。」
真如親王 p203〜
「唐の蘇顎(そがく)の『杜陽雑編』という随筆に「日本国王子」という一節がある。これによると唐の宣宗の大中年間*に、日本国皇子が渡唐して宝器音楽を贈った。宣宗は盛大な宴会を催し、余興珍饌を陳(つら)ねて歓待したが、皇子が囲碁の名人だというので、帝室技芸員の顧師言という者に命じて対局させた。皇子はそのとき本国から持参した楸(ひさぎ)玉の盤、冷暖の棋子を持ち出した。楸玉というのは木理のある玉で鏡のように磨かれており、冷暖の棋子は人工を加えず天然に出来た黒白の碁石で、日本の東三万里、集真島に産し、夏握ると冷たく、冬握ると暖かいという稀代の宝である。さて対局して三十三手目になって勝負所へ来た。形勢はまだ何とも言えぬが、顧師言にとっても非常な危機を娠(はら)んでいたことは、彼が「君命を辱しめんことを懼れ、手に汗を握って長考に耽った」と書いてあるので分かる。ようやくにして三十三手を打ったが、これは「解両征勢」という手だとある。
さてこの意味がどうも判然としない。「二股に解れる止長手」と読めば、皇子の形勢が悪くなる。「双方からの攻め合いを解消する手」と読めば、顧師言が逃げを張ったことになる。恐らく劫(こう)のようなものを造って、千日手にしてしまったことででもあろうと推察される。とにかくこの手は顧師言の傑作で後世、鎮神頭と称せられたという。鎮神頭の意味もまた明らかでない。神様の頭を抑えたというのか、或いは神は心に通ずるから、これで一安心と胸を撫で下ろしたというのか、前者ならばに顧師言に有利であり、後者ならばかろうじて危機を打開したに止まる。いずれにせよ、この手には皇子も困却して、目を瞪(みは)り、臂(ひじ)を縮めて思案に耽ったが、遂に「勝たずと伏した」とある。この勝たずという句を、古来直ちに皇子が負けたように解釈するが、別にそう早呑込みする必要はない。文字通り勝たなかっただけであって、例えば劫が出来たときに、どうしてもそこから脱却することができないとすれば無勝負にしてしまうより外はない。伏すとは率直に実力を表明することで、躁に対する文字である。
さて対局の後に、皇子は接待役の通訳に向って、対手は唐で何番目の碁打ちかと尋ねた。通訳は即座に、彼は唐で三番目の名手だと答えたが、実は顧師言は、唐にはとっておきの第一の名人だったのである。皇子は「そんなら第一の名人と対局したい」と申し込むと、通訳は「唐の法として。第三の棋客に勝てば第二と対局し、第二に勝てば第一の名人と対局し得る慣しである。一足飛びに第一の名人とは指されない」と返事をしたので、皇子は碁盤を撫でながら、「小国の第一は、大国の第三にも及ばぬという言葉があるが本当にその通りだ」と嘆息したというのである。」
大中年間* 西暦七八〇〜七八三年
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「この話には二つの山があって、第一に顧師言がやっとのことで危機を脱して、ともかくも面目を失わなかったこと第二に通訳が架空の名人を作為して、唐の方が強いということに言いくるめたところに話の面白みがある。」
「この際の勝たずはあくまで勝たずで、同時に負けもしなかったと解釈する方がよさそうにおもえる。」
posted by Fukutake at 09:29| 日記