「宮本常一著作集 23 中国山地民俗採訪録(昭和十四年採録)」 未来社
島根県美濃郡匹見村三葛 婚姻について p158〜
「村内婚 三葛も臼木谷も村内婚で、イトコ同士の結婚は特に多く、イトコは結婚しなければならないものと思っていた。だいたい年さえあえば、全部と言ってよいくらい一緒になった。従って家の殖えるということも少なかった。ただし特に一つのハラの中での結婚が多かった。
ヨバイ もとこのあたりはヨバイがあたりまえの所であり、若い者の普通の生活で、そういうことに対して道義的にとやかく言うものはなかった。極く自然なことであった。一つは家と家との間が血の上から言っても近かったためであろう。したがってどの家も夏冬とも戸をしめて寝るようなことはなかった。こういう村では若者宿も娘宿も必要ない。好きな娘の所へ行くのである。一人とは決まっていないで二人も三人もの所へ行った。そうして子供のできることもあるが、できても結婚はしないことは多かった。そういう子をホリタゴといい、女の方がこれを育てた。ヨバイは個人婚であり、結婚は家と家の婚姻であるといえよう。
タノミ 狭い村の中だし、たいていどの家の娘がどの男の所へ行くだろうということは、子供の時から分かっている。しかし形式的にタノミをする。仲人には村の名望家をたのむ。酒を持って行って、その場で相手が受けてくれれば話はついたことになり、飲まねば駄目ということになる。しかしたいていは話がつく。日中でも提灯をともして行き、話がすむまで火を消さない。
カナオヤ 結婚のときもっとも大事な役目を持つのはカナオヤである。カナオヤは子供の生まれたとき名をつけた人である。すなわちここでは名付親がカナオヤを兼ねている。息子または娘の方からは、毎年盆正月に餅一重ネ、米一升ずつをカナオヤの家へ持って行く。すると親の方からは足袋などをくれる。息子は一五歳になるその暮からカナオヤの家に泊りに行く。ただし正月の三、四日の間だけのことである。そして二、三年間これを行う。この一五歳になった時カナオヤは褌、筆、墨を息子にやる。女の子は一四歳に腰巻、白粉、末広、紅、熨斗をもらう。結婚の時カナオヤは息子にムスコノハナムケとて袴、末広に縞の反物一反くらいをそえてやる。娘の方へは、櫛、笄、鏡台、白粉、紅、針箱などを贈る。したがってカナオヤはじつに大切なもんなのであるこの風は臼木谷に強い。以下臼木谷を中心にして書く。三葛も大差がない。
婚入 婚礼の晩に婿は仲人と十四、五歳のコシモトと一緒に嫁の家へ出かける。庭口から入る。御馳走を受けると婿はコシモトと一緒にかえる。これをムコノシリアゲという。
嫁について行く人々 仲人は後に残って嫁を連れて行くことになるのだが、そのとき嫁について行く人々は、まずカナオヤ夫婦。その家の身近いものが実親の代りに行く。叔父か叔母が一人。姉妹分ーこれは本当の姉妹でなく同じカナオヤのところで子になったような者が多い、コシモト ー 一四、五歳女の子がついて行く。他にヘコカタギとて人夫が一人ついて行く。これに箪笥、長持をかついだ雲助が続く。嫁はボオシをかぶって盛装するが、姉妹は紋付を着ないで行く。」
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自己への言い訳ーあら探し
「自分をもっと深く掘れ!」新渡戸稲造 ー(「もったいない」生き方をするな!)
他人のアラ探しほど自分を惨めにするものはない p178〜
「私は君子を気取りもしないし、聖人をてらおうとするつもりもない。しばしば述べる通り、私は欠点が多い。その数を列挙すれば、並の人よりも多いと自覚している私は性来、穏和でのびのびとした人間にはできていない。根性が曲がって生まれたために、一人前の人間になるには、普通の人よりいっそう多く骨を折った。その中でも最も努力したことは、人の欠点(あら)を見ないようにすることである。
私は幼年時代から、人に会うときは、一見してその欠点を発見した。この性質があったから、大概の人を見ては癪に障り、したがって不愉快を感じた。
「あんな馬鹿な奴が威張っている」
「あんなけちな奴が大きな顔をしている」
というように、見る人ごとに癪に障る種子となった。これだけならば、まだ自ら慰められたであろうが、自分を顧みてもまたそうであった。自分自身で気に障ることが多くあり、これはしてはならないと思うことをし、考えまいと思うことを考え。日に幾度となく、自分が自分の癪に障った。
これは生涯中の最大不幸、最大欠点であると思い、これを矯正しようと思い立ったのは、私が十六歳のときであった。以来今日まで三十余年間、この点に注意してきたが、自然に人の美徳を見て喜ぶような徳を備えた訳でもない。すなわち、いわば無理に人為に努めて、この悪傾向を矯正したのであるから、決して世間の人に誇った顔をして、
「人の長所を見るには私のようにせよ。己の欠点を悟るには我がごとくせよ」と自ら模範を気取ることはできない。また、そんなことをしようとする考えは少しも抱いていない。ただ世の種々の人と語ると、私はほとんど同じ病をもっている者が多数いる。
キリストはかつて、
「我は健全なる者のために世に降りしにあらず、病める者のために世に現われしなり」と言った。私はむろんキリストの言をわが身に直接に応用するつもりはないが、この点においてはまったく同じ考えである。
ただしばしば述べるように、私はすでに人間として完成の域に達している人々に呈する言葉は一つももたない。私と同等かあるいはたまたま私に劣る人があるなら、その人々のために一言するにすぎない。そして、世には私に劣る人はなくとも、私と同じぐらいの人は幾万もいると感じる点もあるから、人の欠点探しはいかに自分を堕落させ、かつ自分を不幸に陥れるものであるか、またこれによって得るところははなはだ少ないということを述べて、この悪癖のある人の反省を求めたい。すなわち私は、自分の病気の経験談をして同病者の参考に供するのである。」
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十六歳にして悟る
他人のアラ探しほど自分を惨めにするものはない p178〜
「私は君子を気取りもしないし、聖人をてらおうとするつもりもない。しばしば述べる通り、私は欠点が多い。その数を列挙すれば、並の人よりも多いと自覚している私は性来、穏和でのびのびとした人間にはできていない。根性が曲がって生まれたために、一人前の人間になるには、普通の人よりいっそう多く骨を折った。その中でも最も努力したことは、人の欠点(あら)を見ないようにすることである。
私は幼年時代から、人に会うときは、一見してその欠点を発見した。この性質があったから、大概の人を見ては癪に障り、したがって不愉快を感じた。
「あんな馬鹿な奴が威張っている」
「あんなけちな奴が大きな顔をしている」
というように、見る人ごとに癪に障る種子となった。これだけならば、まだ自ら慰められたであろうが、自分を顧みてもまたそうであった。自分自身で気に障ることが多くあり、これはしてはならないと思うことをし、考えまいと思うことを考え。日に幾度となく、自分が自分の癪に障った。
これは生涯中の最大不幸、最大欠点であると思い、これを矯正しようと思い立ったのは、私が十六歳のときであった。以来今日まで三十余年間、この点に注意してきたが、自然に人の美徳を見て喜ぶような徳を備えた訳でもない。すなわち、いわば無理に人為に努めて、この悪傾向を矯正したのであるから、決して世間の人に誇った顔をして、
「人の長所を見るには私のようにせよ。己の欠点を悟るには我がごとくせよ」と自ら模範を気取ることはできない。また、そんなことをしようとする考えは少しも抱いていない。ただ世の種々の人と語ると、私はほとんど同じ病をもっている者が多数いる。
キリストはかつて、
「我は健全なる者のために世に降りしにあらず、病める者のために世に現われしなり」と言った。私はむろんキリストの言をわが身に直接に応用するつもりはないが、この点においてはまったく同じ考えである。
ただしばしば述べるように、私はすでに人間として完成の域に達している人々に呈する言葉は一つももたない。私と同等かあるいはたまたま私に劣る人があるなら、その人々のために一言するにすぎない。そして、世には私に劣る人はなくとも、私と同じぐらいの人は幾万もいると感じる点もあるから、人の欠点探しはいかに自分を堕落させ、かつ自分を不幸に陥れるものであるか、またこれによって得るところははなはだ少ないということを述べて、この悪癖のある人の反省を求めたい。すなわち私は、自分の病気の経験談をして同病者の参考に供するのである。」
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十六歳にして悟る
posted by Fukutake at 07:49| 日記