「オーイ どこ行くの」ー夏彦の写真コラム 山本夏彦 新潮文庫 平成十四年
アメリカ人でなくてよかった p289〜
「誕生日、結婚記念日、クリスマス、アメリカ人は贈物好きで何かにつけて贈答するという。 ひとたび誕生日に贈ったら、いつまでその人に贈りつづけるのだろう。 親兄弟ならいざ知らず、友はどうする。
夥しい友の誕生日を一々おぼえていることはできない。 専用の人名簿につけておくのだろうか、ABC順に、いつ何を贈ったか値段まで書いた手帖は、一年ごとのダイアリーでは役に立たない。 十年二十年いやもっと使用に耐えるものでなければならない。
彼らは毎年同じものを贈るのだろうか、心のこもったものを贈ろうとすれば途方にくれる。 貧乏がなくなって以来高価なものを贈れば喜ばれるということはなくなった。 それを持参するとその場であけられる。
あけるのが礼儀になっていて、あけたら喜んでみせなければならないとすれば、あらかじめそのジェスチュアと表情を用意しておかなければならない。
贈物の天才もいないではないがそんな人は稀である。 あけてみるまでもない、なあんだという代物が出てきても失望の色は早くひっこめて、かねて用意の喜びの表情を表に出さなければならない。
私たちは誕生日を祝わない。 雛の節句、端午の節句にまとめて祝うのは日本人の知恵である。 中元歳暮にまとめるのもすぐれた知恵である。 このごろアメリカ人のまねをして誕生日や結婚記念日を祝う夫婦があるが、つけ焼刃だから四、五年でやむ。
招かれたら夫婦そろって出席する習慣もよくない。 万一細君が若く美人だと視線は一人に集中する、男たちはちやほやする。 宴果てて帰り途にアメリカの亭主は女房にこづかれる。 何さただ若いだけじゃないの、高校しか出ていないじゃないの。
以下聞きたくない言葉の数々を聞かなければならない、アメリカ人出なくてよかったと書いたら、ニューヨーク駐在の商社社員から全くおっしゃる通りです、パーティには在留邦人の細君はみんな泣いておりますという手紙がきた。」
(平成六年二月三日号)
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2022年09月05日
楽しそうで楽しくない
posted by Fukutake at 07:27| 日記
歴史力学
「宮ア市定全集 2」ー東洋史ー 岩波書店 1992年
歴史とは何か p321〜
「歴史とは力によって動くものである。 暴力も力の一種であるが、全体から見れば暴力によって動かされる分量はいうに足りない。 偉大なのは文化の力である。 文化の高さはこれを計るには結局力によって計るより外はない。 いかに自ら高く評価しても、それが他に影響する力がなければ、それは高度の文化といえない。
個人と個人との間にも、地域と地域との間にも絶えず力が作用している。 そして個人の内部にも、一つの社会の内部にも絶えず力が作用している。 この力は結局二つの相反する力に整理される。 強い力から弱い力を差引いた残りが個人や社会の外部的な働きとなって現われる。 一つの社会には常に集中的な力と分裂的な力とが作用している。 集中的な力が強く現われる時が統一に向かう古代史的、近世的発展であり、分裂的な力が表面に現われる時が中世的停滞の時代である。 その実、古代も中世も近世も全然異なった時代ではなくてその根本には常に見えざる他の力が潜在しているのである。
二つの地域が隣り合っている時にも、相互の間に力が作用している。 一方の内部に分裂的な力が働いている時には、隣の統一的な力が進入し、この事は益々その統一的な力を強化するに役立つ。
こんなことをいうとそれでは全く無味乾燥な機械史観ではないかという人があるかも知れないが、同じことから機械史観といわないで力学史観とでも呼んで貰いたいと思う。 歴史学はどんなに進歩しても、自然科学のような精密科学になり得ない事は私も知っている。 有機体の運動がそれを形造っている原子の運動で説明されぬ限り、自然科学と人文科学との間には、超え難い大きな溝がある。 併し乍ら人事現象をも、自然科学のようになるべく単一なものに分析してゆこうとする学者の努力は尊重されなければならない。 質的なものは出来る限り量的なものに還元せしめられなければならない。
ここに再び過去の精神史観の錯誤を持ち出すには本意ではないが、日本人特有の本質、東洋的精神の真髄というようなものを探究しようとした努力が、結局何を把握したかを考えるだけで十分である。 結局人間は何れも似たようなもので、ただそこに分量の差異があるに過ぎぬことが分かったのである。 実はそれであればこそ比較することが可能であったのだ。 人間の形造る社会も文化も、この線から外れるものではない。 しかしこうして段々分量的なものに還元した最後はどこへゆくか。 結局それは力の外にないであろう。 私の世界史の図表は力の図表である。 時代を発展せしめたのは人類の力である。 それは少数の個人や地域内だけの力ではなく全人類の力がそこに集まって、その地域を推進したのである。
地域区分を行わなければ時代区分が成立せず、時代区分がないならば地域区分は無意味である。 地域区分を行った時、その背後に認めざるを得ない力は、時代区分を行った時、その背後に認めざる得ない力と同一のものであって別のものではない。 時代を発展させた力は同時に地域を成立させた力なのである。」
(『アジア史研究』 第三、一九六三年二月)
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歴史とは何か p321〜
「歴史とは力によって動くものである。 暴力も力の一種であるが、全体から見れば暴力によって動かされる分量はいうに足りない。 偉大なのは文化の力である。 文化の高さはこれを計るには結局力によって計るより外はない。 いかに自ら高く評価しても、それが他に影響する力がなければ、それは高度の文化といえない。
個人と個人との間にも、地域と地域との間にも絶えず力が作用している。 そして個人の内部にも、一つの社会の内部にも絶えず力が作用している。 この力は結局二つの相反する力に整理される。 強い力から弱い力を差引いた残りが個人や社会の外部的な働きとなって現われる。 一つの社会には常に集中的な力と分裂的な力とが作用している。 集中的な力が強く現われる時が統一に向かう古代史的、近世的発展であり、分裂的な力が表面に現われる時が中世的停滞の時代である。 その実、古代も中世も近世も全然異なった時代ではなくてその根本には常に見えざる他の力が潜在しているのである。
二つの地域が隣り合っている時にも、相互の間に力が作用している。 一方の内部に分裂的な力が働いている時には、隣の統一的な力が進入し、この事は益々その統一的な力を強化するに役立つ。
こんなことをいうとそれでは全く無味乾燥な機械史観ではないかという人があるかも知れないが、同じことから機械史観といわないで力学史観とでも呼んで貰いたいと思う。 歴史学はどんなに進歩しても、自然科学のような精密科学になり得ない事は私も知っている。 有機体の運動がそれを形造っている原子の運動で説明されぬ限り、自然科学と人文科学との間には、超え難い大きな溝がある。 併し乍ら人事現象をも、自然科学のようになるべく単一なものに分析してゆこうとする学者の努力は尊重されなければならない。 質的なものは出来る限り量的なものに還元せしめられなければならない。
ここに再び過去の精神史観の錯誤を持ち出すには本意ではないが、日本人特有の本質、東洋的精神の真髄というようなものを探究しようとした努力が、結局何を把握したかを考えるだけで十分である。 結局人間は何れも似たようなもので、ただそこに分量の差異があるに過ぎぬことが分かったのである。 実はそれであればこそ比較することが可能であったのだ。 人間の形造る社会も文化も、この線から外れるものではない。 しかしこうして段々分量的なものに還元した最後はどこへゆくか。 結局それは力の外にないであろう。 私の世界史の図表は力の図表である。 時代を発展せしめたのは人類の力である。 それは少数の個人や地域内だけの力ではなく全人類の力がそこに集まって、その地域を推進したのである。
地域区分を行わなければ時代区分が成立せず、時代区分がないならば地域区分は無意味である。 地域区分を行った時、その背後に認めざるを得ない力は、時代区分を行った時、その背後に認めざる得ない力と同一のものであって別のものではない。 時代を発展させた力は同時に地域を成立させた力なのである。」
(『アジア史研究』 第三、一九六三年二月)
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posted by Fukutake at 07:24| 日記